メディア掲載  国際交流  2017.04.18

AI・ロボ技術: 適切利用へ議論のとき

電気新聞「グローバルアイ」2017年4月12日掲載

 最近は人工知能(AI)の話を聞かない日はないと言っても過言ではない。筆者もクロアチアのザグレブで6月に開催されるロボットとAIに関する応用倫理学会、また9月にロンドンで開催される創薬に関するAI会議に関して、友人達から参加の意向を聞かれている。かくして筆者はAI・ロボット技術と人間との将来における補完的共生関係に関して、限られた知識と能力を毎日感じつつ、情報交換と考察を続けている。

 昨年12月にパリを訪れた時、友人が面白い話を筆者に語り始めた--ジュン、イリヤ・プリゴジンの『混沌からの秩序』を読んだことがある? 彼はその本の中で大変面白い問題を提起している。バッハがいなかったら我々は『マタイ受難曲』を持てなかったであろうが、相対性理論はアインシュタインがいなくても発見されたであろう。このように科学は決定論的な道筋をたどり、対照的に芸術は美しくも予測の不可能な歴史をたどるのであろうか?、と。

 ノーベル化学賞を受賞したプリゴジンは、物理学・化学に天才的な業績を残し、しかもすぐれたピアニストでもあったから、上記のような問題意識を持ったのであろう。もしもプリゴジンが生きていれば、アインシュタインでもあり、バッハのようでもあるAIを考案したかも知れないと友人と語り合った次第だ。そうなれば、我々の科学を進歩させ、また我々の心をなごませるAIが生まれるかもしれない。グーグルやIBMの技術開発スピードを実際に観察していると、心優しきロボットが我々のパートナーとして生まれ出てくるとの期待を抱いてしまう。

 だが、その時に「将来、ノーベル賞は全ての分野でAIが受賞してしまうかも知れない」と友人と語り合い、「それは我々にとって良いことなのか、それとも悲しいことなのか」と言って互いに目を見つめ合った--「すぐれたAIが誕生した時、我々は何をすれば良いのだろう?」、と。我々が導き出した暫定的解答は、「平和」であった。「AIはノーベル平和賞を受賞することができるか」。すなわち、AIが人類愛や平和といった倫理的価値を生み出せるかどうか、これは未だ確定的な解答がない、ということだ。

 AIやロボットの技術開発と同時に、この技術を巡る倫理的問題は将来重要となってくることは間違いない。たとえば今年のダボス会議でも、将来のリスクに関して注意喚起がなされている。すなわち、AIやロボットの国際間開発競争において未だ統一的合意を欠くため、AIやロボットが軍事的に応用された場合、この技術が特定の国に大停電というライフラインの破壊や戦争という惨禍をもたらす危険が発生する。しかし、この問題は実は古くて新しいもので「ロボット」という言葉を生み出したカレル・チャペックは、小説の中で「政府がロボットを兵隊にすると、戦争が頻発する」ことを予言している。

 繰り返しになるが、我々はAIやロボットという技術を開発すると同時に、人類を幸福にする目的だけに先端技術を限定的に利用する制度設計、またそれを可能にする価値観について議論をしなくてはならない時を迎えている。

 映画の『ターミネーター2』のように、ロボットが人類に危険な存在だと判断した時、自発的に喜んで自らを滅ぼすとは限らない。そうなれば、我々の子孫がロボットのご機嫌をうかがいつつ、不愉快な人生を過ごすこととなる。かくして今、ロボット先進国である日本のすぐれた価値観と意見が問われているのだ。