メディア掲載  外交・安全保障  2016.07.28

ツキジデスの罠-覇権国と新興国との対立-

読売新聞2016年7月25日に掲載

 南シナ海における中国の海洋進出をめぐる仲裁裁判は、中国が歴史的権利として管轄権を主張する「九段線」の法的根拠を否定し、スプラトリー(南沙)諸島に排他的経済水域を伴う「島」は存在しないという、中国の全面的敗訴といえる法的結論をもたらした。中国の指導部やメディアは総力を挙げてこれに反論し、仲裁判決の無効性を強調しつつ、南シナ海における埋立てや軍事関連施設の建設を継続する姿勢を崩さない。

 中国国内では国際制度や規範が、台頭する国家に不利・不公平に形成されているという不信感が高まっている。とりわけ南シナ海では、海洋進出の拠点として歴史的権利を主張する中国と、航行自由の原則を重視し一方的な現状変更を厳しく批判する米国との間で、ますます非妥協的な性格が強まっているようにみえる。南シナ海を舞台とした米国と中国の本格的な対立は不可避なのだろうか。

 こうした見方を米国の政治学者グレハム・アリソンは「ツキジデスの罠」として警告する。古代ギリシアの歴史家ツキジデスは著書『戦史』のなかで、紀元前5世紀に内陸指向国家スパルタが、アテネの国力興隆に不安を抱き、戦争に至った経緯を叙述した。このペロポネソス戦争の歴史は、覇権国と新興国とのパワーシフトの過程で引き起こされる深刻な対立を示唆している。

 ハーバード大学のベルファーセンターは、過去500年にわたる新興国とその挑戦を受ける覇権国との関係を示す16の事例において、はからずも12件が戦争に至ったと分析した。そして戦争を回避できた事例でも、覇権国が国際システムやルールの改変などの大きな代償を強いられた。

 現実主義の立場に立つジョン・ミアシャイマーは著書『大国政治の悲劇』の中で、中国が地域覇権を獲得する行動に伴う米中の対立は不可避であると位置づける。また中国軍事研究を長年続けてきたマイケル・ピルズベリーは著書『China2049』の中で、中国は「平和的台頭」等のスローガンの背後で建国から100年にあたる2049年までに米国を完全に追い抜く超大国となる「マラソン」を続けていると主張する。両者に共通するのは、台頭する中国と対話を試みる「関与政策」を続ければ、国際システムに平和的に恭順するという楽観論への戒めである。

 しかし「ツキジデスの罠」をひもとけば、戦争を引き起こす主要な要因は「戦争が不可避である」という確信そのものであった。中国との対立は不可避であるという信念こそが、予言の自己成就をもたらしかねない。中国をとりまく原則論の対立にどのような妥協や共通の利益を見出すことができるか、「ツキジデスの罠」を抜け出す知恵こそが問われている。