最近の米国経済を見ると、昨年12月にゼロ金利から脱出するなど、経済状態は回復に向かいつつある。
しかし、米国民の多くはこの経済状態の改善を享受できていない。過去30年間で豊かになったのは、所得上位8%の人々だけで、92%の人々は給与水準がほとんど変っていないと言われている。
リーマンショック後のバブル崩壊によって生じた住宅ローンの多額の借金返済負担の苦しみから脱出できていない人も多い。加えて、給与水準はリーマンショック以前に比べて低下したままであるため、借金返済負担が以前よりむしろ重くなっている人々も少なくない。
白人の低所得労働者層や就職難が続く若年労働者層の不満が特に強く、彼らが今回の米国大統領選挙においてドナルド・トランプ氏やバーニー・サンダース氏の支持基盤となっている。
現在、大統領選においてトランプ氏とサンダース氏が予想外の善戦をしている背景には、リーマンショックから間もなく8年が経過しようとしているにもかかわらず、こうした経済問題をきちんと解決できないエスタブリッシュメントに対する強い不満がある。
米国におけるエスタブリッシュメントの象徴的存在は、政治と外交を牛耳るワシントンDCと経済を牛耳るウォールストリートである。
ヒラリー・クリントン氏は、米国初の女性大統領候補であり、大統領の職務遂行に必要な政治・行政・外交手腕に秀でた人物であると認められている。にもかかわらず、最近の世論調査では、支持率が40%前後で伸び悩み、非支持率が50%台後半に達して支持率を大きく上回っている。
それは彼女がエスタブリッシュメントを代表する存在とみなされているせいである。
彼女はビル・クリントン大統領のファーストレディーとしてホワイトハウスを熟知し、オバマ政権の国務長官として米国の外交政策を指揮するなど、ワシントンDCの中枢において豊富な経験を持つ。
それに加えて、彼女の豊富な政治資金を支えているのがウォールストリートの金融機関である。まさにエスタブリシュメントの典型例と言っていい存在である。
米国経済はマクロ経済データ上は順調に回復傾向を辿ってきたように見えるが、実際にはその回復を実感できていない低所得者層がかなりの割合に達している。彼らの給与水準は横ばいだが、実質的な生活水準は30年前に比べると向上しているとの指摘もある。
それは低コストの輸入品の増大やIT関係の高付加価値サービスの急速な価格低下などによるものである。
しかし、米国内での彼らの経済的地位は相対的に低下した。以前は中流に属していると感じられた多くの労働者が、今や低所得層に属していると実感せざるを得ない状況に追い込まれている。
この経済的地位の低下を感じる層が、エスタブリッシュメントに対する強い不満を持つ母集団である。彼らの投票行動が米国の大統領選挙の行方を全く分からなくしている。
一般的にはトランプ氏に比べてクリントン氏がやや優勢との見方もあるが、実際には11月の開票結果を見るまで誰にもわからない状況に陥っている。
景気回復の遅れや経済的格差の拡大を背景とするエスタブリッシュメントに対する反発と類似の現象は、欧州や中国でも見られている。欧州については、経済学者のトマ・ピケティ氏らがフランスの格差拡大問題について指摘している。
中国では、国内の所得分配の不平等の度合いを示すジニ係数が2008年に0.491に達した。その後、低下傾向を辿り、2015年は0.462まで低下したが、それでもなお、0.33前後の日本に比べるとはるかに高い水準にとどまっている。
こうした状況下、社会保障水準や教育機会の都市農村格差、固定化する社会階層、大量の失業を生み出す重化学工業企業のリストラ政策等への不満は根強い。
日本でも2000年以降、所得格差の拡大が指摘されている。また、東大合格者の親の平均所得水準が慶應大合格者の親の平均所得水準を上回るなど、所得格差が学歴格差を生み出し、所得・学歴格差が固定化することへの懸念も指摘されている。
それでも、欧米や中国に見られるような、エスタブリッシュメントに対する強い不満の増大という深刻な社会現象は見られていない。
その1つの原因は、欧米の巨大企業の経営者が数十億円という年収を得ている例が珍しくないのに対し、日本の大企業経営者の多くは、企業業績が良くても社長の年収を2億円程度以下に抑制し、その分従業員の給与水準の引上げや納税を通じて社会に還元していることにあるのではないかと考えられる。
その背景にある経営理念は短期利益より長期的な信用の重視である。
一般的に、欧米系や中国系の企業は、短期利益の追求を重視し、株主利益の最大化に力点を置く。これに対して、日本企業の多くは、経営の長期的安定と顧客や社会からの信用を重視する傾向がある。
会社の業績が悪化しても、従業員の雇用を何とか維持しようと必死に努力を重ねる企業経営者の割合は欧米や中国より多い。従業員のリストラによる減量経営を梃にした収益の回復という、欧米企業によく見られる経営手法はなるべく取らないようにするという考え方が一般的である。
営利企業である以上、利益を確保し経営を維持することは不可欠であるが、従業員の雇用の安定や地域社会の利益を犠牲にしてまで企業業績の改善を目指すのは望ましいことではないという考え方は広く共有されている。
それは単に経営層が考えて実践するのみならず、日常的な従業員教育を通じて全社が一体となってそうした価値観を共有し、社会への貢献を重視し実践している企業も少なくない。こうした理念を真摯に実践する日本企業は米国や中国でも高く評価されている。
もちろんこうした企業カルチャーは全企業に共有されているものではない。従業員の長期的な雇用を前提としながらも、労働コスト引き下げのために正社員として採用せず、派遣社員の扱いを維持しようと考える企業は顕著に増加した。
確かにそれは労働力コストを抑制するには有効な手段であるが、日本では高い評価は得られにくいはずだ。
こうした日本企業の経営理念が、欧米や中国の経済社会が直面している社会的不満の増大やエスタブリッシュメントへの反発に対して1つの解決方法を提示していると考えることができる。
すなわち、株主利益の最大化のために短期利益の拡大を重視するのではなく、企業の長期的な信用を重視し、社会への貢献および従業員の雇用確保を優先する企業文化は地域社会、そして国家の安定に大きく貢献する可能性が高い。
こうした日本企業の理念や行動様式は米国大統領選でトランプ氏やサンダース氏を支持する選挙民や中国各地で地域社会の雇用と税収確保を目指す地方政府のリーダー層のニーズに合致する。
もちろんすべての企業にこうした経営理念を強制することはできないが、一定割合の企業が上記のような理念を持つ日本企業と同様の経営方式を採用するだけでも、地域社会および国家全体の安定性は大幅に向上すると考えられる。
以上のような認識を踏まえ、日本企業が欧米や中国の経済社会が直面している課題の実態を十分に認識し、自らの企業経営理念とその実践が各国の社会問題を解決する効果を持つことを、自らの企業価値として適切にアピールすることを提案したい。
そうすることによって、各国社会の安定に貢献するとともに、企業のレピュテーション(評価)を高め、それをブランド力に変えて、収益基盤の強化にも生かしていくことが可能である。
日本企業が日本国内のみならず、世界各地で社会の安定に貢献することを通じて、企業の長期的な信用と社会への貢献を重視する企業経営のあり方を日本独自の価値として、世界に対して発信することはグローバル社会における日本の存在感も高める。
私が知る限りの範囲でも、その役割を担う気概のある日本企業の経営者は決して少なくない。
各国の中央・地方政府も社会安定効果をもつ日本企業を誘致するインセンティブは大きいはずであり、補助金や税制優遇措置により積極的に誘致する可能性も考えられる。
各地の政府のリーダーが日本企業の貢献の大きさを宣伝してくれるだけでも、レピュテーションが高まり、企業のブランド力向上に直結する。
世界中で資本主義社会への信頼が動揺しつつある状況下、日本企業が世界各地で社会の安定に貢献することによって、日本型経営の価値への理解を深めさせ、日本の存在感をも高めていくことに期待したい。