フランスの経済学者トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」は、日本を含む世界で、専門的な内容を含む書物としては異例のベストセラーとなっている。世界的に生じている所得格差の拡大という現実を背景に、所得格差の長期的な動態を豊富なデータに基づいて一般読者にも接しやすい形で論じたことが、広く受け入れられた理由であろう。
とはいえ、この本は必ずしもわかりやすいものではない。大部であり、対象の広がりが時間的にも地域的にも大きい。また、理論的な記述と経験的観察が織り交ぜられている。
本書の第1の大きな特徴は、主要国の所得格差を、100年以上にわたる長期的データに基づいて取り上げていることにある。これらのデータは主に、ピケティ氏と共同研究者が作成した「世界トップ所得データベース」によるものだ。
100年以上前の所得格差について、信頼できるデータを得ることは非常に困難に見えるかもしれない。しかし、主要国は長い所得税の歴史を持っていて、所得税が導入されると多くの場合、関連する公式の統計が作られる。その統計に、各所得階層についての所得税額と納税者の人数のデータが含まれていれば、高所得者の所得分布を推定できる。
一方、主要国の人口統計は過去にさかのぼって得ることができる。国民所得も、オランダのフローニンゲン大学の故アンガス・マディソン氏など多くの研究者の努力によって、世界各国について長期遡及(そきゅう)推計が行われている。これらのデータを組み合わせることで、ある国の中で所得の水準が上位1%、5%、10%などのグループに入る高所得者の所得が、その国の総所得(国民所得)に占めるシェアを計算できる。
ピケティ氏はこうした方法で、主要国における上位所得層が、総所得にどの程度の割合を占めているのかを、100年以上にわたって比較可能な形で提示した。それによると、上位所得層のシェアの長期的な動きには、日本を含む主要国で共通のパターンが観察される。
すなわち、第1次世界大戦期までは、上位所得層のシェアは高い水準で安定していた。その後、第2次大戦直後にかけて大きく低下した。そして戦後は低い水準で安定していたが、1980年代から再び上昇し、特にアメリカでは21世紀初頭に高い水準に達している。
本書の第2の特徴は、こうした所得格差の長期的な動きをもたらす原動力を、単純な形で特定している点にある。ピケティ氏が強調するのは、「資本に対する収益率が経済成長率よりも高い」という関係だ。これは論理的に導かれるものではなく、経験的に観察される関係である、とされている。そして、この関係が所得分配に対して持つ、次のような含意が強調される。
株式・債券などへの投資による資本収益率が経済成長率より高いと、資本収益の一部を資本に追加投資することで、資本の増加率を経済成長率より大きくできる。その場合、所得全体の中で、資本から得られる所得の比率(資本分配率)が上昇する。言い換えれば、資本家は、投資収益の一部を貯蓄して資本に付け加えることにより、平均以上に自分の所得を高められる。これが、ピケティ氏が考える格差拡大の原動力だ。
それでは、このメカニズムでどの程度、現実の所得格差の動態を説明できるだろうか。一つの例として、戦前期の日本をとりあげよう。
ピケティ氏が示しているように、戦前の日本では上位1%のグループが所得全体の20%近くを占めていた。これは当時の欧米諸国、今日の米国と同等の大きな所得格差である。また、日本の経済学者の南亮進氏と故・小野旭氏の推計によると、第2次、第3次産業における資本分配率は上昇する傾向にあった。そして、資本収益率は、マクロデータから推計すると14%程度で、経済成長率の3~4%を上回っていた。
これら三つの事実から、ピケティ氏が強調する「資本収益率が経済成長率よりも大きい」という関係が、戦前日本の所得格差の動態の説明として、妥当であるように見える。
しかし、注意が必要である。
南、小野両氏は、資本分配率を比較的規模の大きな法人企業と、自営業を中心とする非法人とに分けて推計し、資本分配率の上昇は主に後者で生じたことを示した。これは、経済が発展して自営業者らが抱えていた過剰労働力が減少し、その収益率が上昇したことによった。
明治期の日本では、自営業者らは家族労働者を中心に生産性の低い過剰労働力を多く抱えており、彼らにその生産性以上の報酬を提供していた。経済発展に伴い、こうした状態が解消するにつれて、自営業者らの収益率が上がったのである。収益率の上昇が関係しているとはいえ、このメカニズムは、ピケティ氏が想定している単純なものとは異なる。
ピケティ氏の単純化は、一方で本書の衝撃度を大きくすることに寄与しているが、他方で現実の重要な部分を視野から排除するリスクもあわせ持っている。