コラム  国際交流  2016.05.12

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第85号(2016年5月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 世界経済に蔓延する閉塞感からの脱出願望が大きいせいか、様々な分野でinnovationが提唱されている。だが、元来innovationは独創的であるが故に非日常的で、容易に産み出されるものではない。換言すれば、現在は、経営学者のケッツ・ド・ブリース教授が語る"創造性に関するグレシャムの法則(Gresham's Law of Creativity)"、即ち「迎合主義的な凡人が創造力豊かな異端者を駆逐する」危険性を警戒すべき時代でもあるのだ。

 そもそもinnovationとは人々の無関心や周囲の抵抗を乗り越えて達成された成果であり、個人や組織の"能力"のみならず、"汗"と"歳月"更には"協力者"と"幸運"を必要とする。これは創薬領域で現在注目されている免疫学にも当てはまる--大阪大学の坂口志文教授は画期的な論文の発表を試みたが、学術誌(NatureとJournal of Experimental Medicine)に掲載を拒否された。また米国のジェイムズ・アリソン教授はScience誌に独創的研究を発表したが製薬大手は静観し、3年後、初めて共同研究を申し出たのは規模の小さなベンチャー企業(Medarex)だった。歴史的なinnovationの実現直前には、こうした"大逆転・どんでん返し"が必ずと言って良いほど観察される。電子工学分野ではトランジスタが発明された時(1948年)、マスコミのみならず専門家ですら無関心な人が数多くいたのだ。更に時代は遡るが英国産業革命の創始者の一人、ジェイムズ・ワットも同業者から排除されるという苦境の中、当時アダム・スミスが教鞭を執るグラスゴー大学が構内に設備を、また実業家のマシュー・ボールトンが資金的・政治的援助を提供したが故にinventionを基に事業化しinnovationを実現出来たのだ。そして今、海外の友人達は「日本人は勤勉で優秀だが大多数が礼儀正しいconformistだからimprovementやsustained innovationでは大活躍出来る。だけどconformistであるが故に、disruptive innovationが苦手で貴重な日本のR&D資金が必ずしも効率的に活用されないのでは?」と疑問を呈している。

 さて、英国の友人から「大陸ヨーロッパの友人達から、EU離脱(Brexit)に関して"不実な英国(Perfidious Albion)"による愚挙と非難されている」との電子メールが届いた。それに対して、「正真正銘の怜悧なPerfidious AlbionならBrexitはあり得ないはずだ」と、次のような長いメールを返した次第だ。

 「経済的閉塞感は世界中に蔓延している。ニューヨーク市立大学のミラノヴィッチ教授は、技術進歩とglobalizationのために最も苦しんでいるのが先進諸国の下位中間層だと分析している(Global Inequality, Harvard University Press, April, 次の2参照)。こうしたなかマーティン・ウルフ氏は、Financial Times紙上で先進国の人々が指導者に対し厳しい視線を向けていると論じた("The economic losers are in revolt against the elites," Jan. 26)。この結果、英国でBrexit派が、米国でトランプ氏が大活躍なのだ。米国のジャーナリストであるマッケイ・コピンズ氏は、昨年末に出版した本(The Wilderness: Deep inside the Republican Party . . .)の中で、現在、トランプ氏の言動は(大道芸人的)"torch-juggling act"で大衆を魅了していると語った。確かに今のような時代、古代ローマの言葉"パンとサーカス(bread and circuses; panem et circenses)"が人々の知的精神を惑わす鋭い武器なのだ。

 翻って科学的なシミュレーションや緻密な議論は人々に対する"ウケ"が悪い。何故なら仮説・前提次第で結果が変り、そうした複雑な話を論理的かつ丁寧、しかも忍耐強く説明する事が難しいからだ。このため歯切れ良く単純でわかり易い話をする論者とそうでない論者、どちらが的確な政策を採り、明るい展望を人々に示す指導者なのか--これを識別する事は大変難しい。指導者が優れた弁論家(orator)なのか、或いは下品な嘲(あざけ)り屋(buffoon; scurra)なのか、この判断基準の一つが"揶揄自体の節度と自制(control and restraint of raillery; dicacitatis moderatio et temperantia)"であると、ローマ時代に共和制を推進した政治家のキケロは語る。我々はキケロの警句を今一度想起し、指導者の真贋を見極める必要がある」、と。



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「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第85号(2016年5月)