メディア掲載 国際交流 2015.04.23
3月に北京で開催されたハーバード大学の同窓会に出席した。ファウスト総長はじめ多数の研究者も参加し、先端分野の研究も紹介されて旧交を温めた次第だ。そして500人近い参加者と共にバイオイメージングと環境都市工学が知的交流を行なう可能性、更にはそこに人工知能の技術が如何に絡むのかという話を聞き、深化するグローバル化と知識社会の一層の複雑化・学際化を再確認した。
北京では米中両国に駐在された方とも言葉を交わした。その方のお子さんが英中両言語を習得し日本のために働きたいと語るのを聞き嬉しく思った次第だ。会話の途中、小学校での英語教育に筆者が懐疑的である事に驚かれたが、理由を述べたところ納得して頂いた。その理由とは①外国語の習得では発音が大切、②日本では発音に留意する教師が絶対的に不足、③旅行程度の会話は別として英語の必要性は個人により大きく異なる、④英語だけが外国語ではない、⑤大事なのは日本語に翻訳されていない情報の存在を認識する事と優秀な翻訳者を知っている事、以上5点だ。
小学生は母国語の日本語を正確に習得することが大切だと筆者は考える。"バイリンガル"という言葉が巷間流布しているが、母国語も外国語も中途半端にしか話せないという"ダブル・リミティド"ないし"セミリンガル"になる事態をむしろ心配する。
世界を感動させたフクシマ・フィフティーや被災地で献身的に働いた看護師の黒田裕子女史は英語を必要としただろうか。30年前、阪神タイガースの優勝に貢献したランディ・バース選手に"日本の心"を説いた川藤幸三氏は英語が流暢だろうか。答えは「否」だ。また数学者は共通語である数式・記号の熟知が必須で、言葉の役目は副次的だ。問題なのは中根千枝東大名誉教授が仰った通り「英語が必要な人ができない」事であり、日本の「人口の1割くらいができれば十分」なのだ。こうした認識の基で、日本を一歩出れば日本語が殆ど通じないことを覚悟し、特に専門的な会合では国際共通語が必須である事を銘記すべきである。
4月初旬までローザンヌで行われたイラン核交渉に参加したモニツ米エネルギー長官とイランのサーレヒー原子力庁長官は共にMIT出身で、非公式の場では歓談したと聞く。他方、筆者は日本人特有のなごやかだが意思の疎通を欠いた会話を海外で何度も目撃してきた--英語が不得手な日本の方が身振り手振りで外国の専門家に親しげに話している。外国人達が筆者に向かって「彼の英語はよく分からないがIMFの資料やAER等の専門誌は読んでいるのか」、「彼の"しぐさ"が分からない。野球のサインか空手の型のように映るけど...」と尋ねた時、恥ずかしくなった次第だ。
こうした事態は昔も今も変わらない。嘗て天才的軍略家と呼ばれた石原莞爾はドイツ留学中、軍事史家のデルブリュック教授ともルーデンドルフ元参謀本部次長とも言葉を交わせず、参謀本部軍史課の中佐と少し会話しただけだ。そして礼節と教養を具えた外国人を知的に「引きつけるは中々困難」で、若い人に外国語学習の「卒業後の中絶は絶対に不可」と書き残している。
筆者も"日本語臭い"英語や理解不足と勘違いから生じる"オネスト・ミステイク(善意の誤り)"に未だに悩んでいる。従って筆者の英語も修行中で、更なる努力を要する。このように英語を真剣に学ぶべき時期は、高校・大学という中・高等教育の時、更には社会人になって継続的に、と筆者は考えている。