コラム 国際交流 2014.10.02
先月下旬、中韓両国に出張した。中国では梅原龍三郎画伯の『北京秋天』を思い出す程の好天に恵まれ、友人達と世界の政治経済情勢や各国で昂揚するナショナリズム・愛国心に関し、率直な意見交換を行った。対話の中で筆者は、優れた文献--例えば在米の中華系研究者、萬明教授のSino-Japanese Relations: Interaction, Logic, and Transformation (Stanford University Press, 2006)や筆者の知人、何忆南教授の"Forty Years in Paradox: Post-Normalisation Sino-Japanese Relations" (China Perspectives, 2013)--、また、或る元帝国海軍航空兵が日中戦争から敗戦までの模様を率直かつ淡々と綴った名著『修羅の翼--零戦特攻隊員の真情』に言及しつつ、東アジアの将来について語った。
捉え難いものの、ナショナリズムや愛国心は世界の命運を左右する重要な要因だ。これに関して、甲南大学の安西敏三教授は、福澤諭吉先生の愛国心に関する理解を通じ冷静な対処法を示唆している。即ち、諭吉先生は、トクヴィルの名著『米国の民主政治(De la démocratie en Amérique)』を読み、2種類の愛国心を考えたのだ。その第一は①「天稟(テンピン)の愛国心(le patriotisme instinctif)」で、本能に基づき故郷を想う心に由来し、私心の無い愛国心だ。もう一つは②「推考の愛国心(le patriotisme réflechi)」で、①に比して情熱面では欠けるものの、知識や法律という合理的思考に基づく愛国心だ(『福澤諭吉と自由主義』(慶應義塾大学出版会 2007))。
勿論、両者に関し良否・優劣を判断することは出来ない。ただ、①に関して「故郷への想いは、往往にして宗教的情熱により刺激を受け、このために絶大なる奮闘努力を生み出す。従ってこの愛国心は或る種の宗教であり、理屈ではなく、信条や感情に基づく(Souvent cet amour de la patrie est encore exalté par le zèle religieux, et alors on lui voit faire des prodiges. Lui-même est une sorte de religion; il ne raisonne point, il croit, il sent, il agit.)」ことを理解する必要がある。翻って、②は非情なる国際政治力学を冷徹に分析し、一国の政戦略を熟考する際に影響力を持っている--例としては、チャーチルの冷徹な愛国心が挙げられよう。Hitlerite Germanyに対する彼の戦いは凄まじく、毛沢東主席とキッシンジャー氏との対話の中でも言及されている(『キッシンジャー「最高機密」会話録(Kissinger Transcripts)』)。第一次世界大戦後、チャーチルはBolshevik Russiaを極度に嫌って"Kill the Bolshie, Kiss the Hun"とまで言った。が、第二次大戦時はナチス打倒という大きな目的を前にして、持論に反してスターリンと協力したのだ。
複雑怪奇な情勢下、熱烈な「天稟の愛国心」と冷徹な「推考の愛国心」を如何にバランスするか? 本当に難しい問題だ。戦前の優れた外交評論家、清澤洌は名著『外交史』の中で次のように述べている--「日本外交史において最も有能なる外交家として、陸奥と小村を擧ぐることに何人も異議はあるまい。だがその當時の事情に觀れば、その二人ほど恐らくは無能外交家を以て呼ばれたものはない。陸奥の日清戰爭外交の後...衆議院における政府弾劾上奏案が待ってゐた。...小村の日露戰爭外交の後には、帝都未曾有の騒擾(ソウジョウ)がかれを待った。...民論はその性質上無責任で感情的だ。だが、これが國民層に深く喰ひ込んで居る關係から、これを無視してしまふといふことは全く不可能」、と。これに関して大阪大学の米原謙教授も「政治の劇場化は顕著で...いずれの国においても、社会的困難が顕在化すればするほど、ポピュリスト的な政治指導者が出現する...。それは容易に過激なナショナリズムの温床になる... ナショナリズムは、まるで忘れていた歴史の怨霊のように、今後もわれわれを苦しめ続ける」と語っている(『ナショナリズムの時代精神』 (萌書房 2009))。