コラム 国際交流 2014.09.02
自然災害の報道に接するたびに人智の限界を痛感する。91年前の9月1日に発生した関東大震災では、ラジオ放送開始(1925年)の2年前であったために情報収集がままならず、また約190万の被災者、被害額で当時のGDPの29.4%と、悲劇的な東日本大震災(同、約47万、3.5%)と比較しても息を飲む惨状だった。
当時は地震により東京附近の電信・電話網は殆ど潰滅した。奇跡的に無事だった海軍船橋送信所は情報を発信し、旅順附近で受信した連合艦隊は旗艦「長門」を急派した。近傍の秦皇島沖にいた米国アジア艦隊も救援に駆けつけ、東京湾にほぼ同時に到着している。「3/11」では、人道支援・災害救助活動(humanitarian assistance/disaster relief (HA/DR))である米軍の"Operation Tomodachi"が感動を呼び、連帯感を強めたが、史料によると関東大震災時の米軍の救援活動も感動的かつ膨大だった--米軍寄贈の食糧(米)が約8,700t、また毛布が約11万枚(他方、日本帝国海軍の輸送量は米1,900t、毛布8万5千枚)と、圧倒的な国力を背景とする救援活動であった。救援のために訪日した米兵が街中に溢れていた状況を、約20年前に公開された当時の駐日フランス大使ポール・クローデルが本国に送った情報からも確認出来る--「東京附近の水域では米海軍の駆逐艦や哨戒艇が往来し、首都の道路はUSAと書かれた救急車やトラックで混雑している。帝国ホテルはワイシャツ姿の陽気な救助隊員で超満員だ。あたかも1918、1919年の(第一次大戦直後の)パリに居るようだ(Les eaux de Tokyo étaint sillonnées par les destroyers et les vedettes américains, les rues de la capitale encombrées d'ambulances et de camions à la marque U.S.A., l'Hôtel Impérial était encombré de joyeux sauveteurs en manches de chemise. On se croyait reporté à Paris aux jours de 1918 et 1919)」、と。
しかし当時の日米関係は良好ではなかった。震災直前の2月に「帝国国防方針」を改訂し、仮想敵国を以前(1918年)の①露②米③中から、①米②ソ③中に変更していたのだ。このため帝国陸軍は「震災に對する米國努力の後難とその對策」をまとめ、米国の救援活動・復興支援により日本帝国が"米化(Americanization)"することを懸念した。またクローデル大使は「9月1日の火災で日本人が最も驚いたのは、空襲の際に首都がどうなるかということが分かったことだ(Ce qui paraît avoir frappé le plus les Japonais dans l'incendie du 1er septembre, c'est l'exemple qu'il fournit de ce qui serait arrivé à leur capitale en cas de bombardement aérien)」と本国政府に打電している。戦後公表された史料は、関東大震災時に発生した火災に関する調査を基に、米軍が可燃性の高い木造建築が密集する日本の都市を研究し、また焼夷弾の改良を重ねた上で、大震災22年後の1945年3月、大空襲により東京を再び焦土に変えたことを伝えている。こうした歴史から学ぶことは、防災対策を多面的に講じると共に、長期的な視点に立ち、同時並行的に良好な国際関係を構築する努力を重ねることであろうか。
史料を読んで感動するのは日本の一般国民の態度だ。勿論、不幸な出来事も多数あったが、救援のために訪日した米国アジア艦隊のアンダーソン司令官は、日本を去る際に次のように語った--「予は年齢満限で近く退役する者であるが...最後の御奉公に友邦日本の災難を幾分にても救助する任務に服し得たのは真に幸せとするものである。...横浜到着後、...災害地を見たが...日本人は...営々として復旧に努力している。これが米国であったなら恐らく男は泥酔し女は"ヒステリー"を起こし仕事をしないであろう。日本人は偉大なる民族である」、と。