コラム 国際交流 2014.08.15
開戦120周年を迎えた日清戦争(甲午战争)を回顧する連載記事が、中国海軍(PLAN)の雑誌(«当代海军»)に掲載されている。副司令官(副司令员)の丁一平中将は、第1回の「日清戦争時の海戦再認識(対甲午海战的再认识)」を著し、また海軍指揮学院長の沈金龍少将は、第4回「日清戦争敗北の影響(対甲午战争失败的影响)」を著している。こうした論文と共に先月の環太平洋合同演習(RIMPAC)で注目を浴びた特殊艦(电子侦察船北极星号)の動きを内外の友人達と語り合っている。また開戦100周年の第1次世界大戦に関して、ケネディ大統領が愛読した名著『八月の砲声(The Guns of August)』、更には8月15日を前にして、船橋洋一氏の『原発敗戦』(2014年)や北岡伸一教授の『日本政治の崩壊: 第三の敗戦をどう乗り越えるか』(2012年)を興味深く再読した。
『原発敗戦』は原発事故を巡る制度的欠陥を指摘した力作で、国会事故調査委員会委員長の黒川清先生の"日本文化論"を批判している。筆者は、黒川先生に「賛否は別として、質の高い議論が交わされること自体、市民社会の成熟化にとり大事なこと」と申し上げた次第だ。黒川先生が強調されたのは特殊化した当時の"安全文化"だと筆者は理解している。しかも重要なのは"文化"自体、国レベルや組織レベルで時間の経過と共に変化することを忘れてはならない点だ。そして今、将来の"安全文化"が肝要だと考えている。
『原発敗戦』の中には、事故当時福島第二所長で今後の"安全文化"を変えるため廃炉の最前線で指揮を執る増田尚宏氏が登場する。船橋氏と半藤一利氏が或る対談で、福島原発の第一・第二の危機管理を比較して「情の吉田、理の増田」と称している。これに対して増田氏は「地元で『非情の増田が来た』とずいぶんからかわれましたが、自分では結構、情はあるんだと思っているんです」と語っており、思わす微笑んだ次第だ。また同書は太平洋戦争時に浮き彫りになった帝国海軍の制度的(or "組織文化"的?)欠陥に頻繁に言及している。これに関しては帝国海軍も明治と昭和では"組織文化"が完全に変わったことを銘記する必要がある。
現在、横須賀の戦艦『三笠』には"三六式無線電信機"の模型が展示されている。帝国海軍の"明治の組織文化"は、世界の技術動向に対して極めて敏感だった。1897年、専門誌(The Electrician)の記事に注目した逓信省と海軍省は、海外を横目で睨みつつ技術開発に専心し、1903年には世界最高水準の無線技術を開発した。そしてこの技術で索敵を行ない、日本海海戦で完全勝利を得たのだ。翻って"昭和の組織文化"は驕慢かつ海外動向に鈍感であったと言えよう。1935年開発の初期のレーダ技術に関する英国特許公報を見て、海軍技術研究所の谷恵吉郎中佐は翌1936年にレーダ開発を提案したが、"昭和の組織文化"の中ではこの最先端情報は全く無視された。このように帝国海軍の"組織文化"は、明治と昭和との間で大きな差が存在する。
さてレーダや原爆に関する優れた初期技術を開発したものの、国力自体が弱体化して迅速な技術開発が不可能と判断した英国のチャーチル首相は、1940年夏、極秘のティザード使節団を米国へ送った。米国の圧倒的な工業力・技術力を"梃子(てこ)"にして優れた軍事技術を開発し、強敵ドイツに対峙しようとしたのだ。こうした理由から、昔も今も、"組織文化"とそれに方向付けをするリーダーシップとが非常に重要であると筆者は考えている。