コラム  国際交流  2014.07.17

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第63号(2014年7月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 部外者とはいえ、筆者は理研(理化学研究所)が絡んだ最近の不幸な事件に心を痛めている。日本経済再建には革新的な技術開発が不可欠で、それが故に理研が果たす役割は今後重要性を増すと考えていたからだ。そして今、筆者は内外の研究者や実務家と①如何なる技術分野に注目するか、②如何なる組織形態がR&Dに適しているか、そして③如何なる政策的関与が有効か、以上3点に関し議論を進めている。特に、②の中でグローバル・レベルでの最先端研究管理方式(successful skunkworks management)に関心を強めている。

 小論「独創的な研究を生む環境」の中で大阪大学元総長の金森順次郎先生は、通常の追随発展型研究と異なる独創的研究に不可欠な、"幅の広い精神活動と強靭な志"を持つ研究者に注目された(『科学技術と知の精神文化-新しい科学技術文明の構築に向けて』(2009))。しかも独創的研究におけるリーダーは単なる専門家ではなく、オーケストラの指揮者が各パートの演奏者を巧みに活かす如く、組織全体として麗しいハーモニーを奏でられるような戦略的研究者でなければならない。これに関して日本の宇宙開発の功労者、斎藤成文東京大学名誉教授も"戒めるべき専門家の思い上がり"を強調した-「先端技術の...研究者や技術者は、みんなエリート意識を持っている。それはチームの団結をはかるうえでは役立つが、実際に仕事を進める段階になると逆にこれが疎外感を生む原因になる」、と。これは斎藤先生が戦時中、若き技術将校として帝国海軍技術研究所-優秀な研究者を抱えながら協力体制を戦略的に確立出来なかった組織-で得た真理だ (例えば中川靖造著『海軍技術研究所』(1987)を参照)。独創的研究には「専門家に加えて、研究活動全体を戦略的に組織・運営する指導者も必要」という意見に日本科学未来館の毛利衛館長も賛同する-「科学コミュニティーが研究予算の優先順位を付けることは難しい...。あまりにも自分たちが専門家なので、狭く深く見えすぎてかえってできない」、と (財務省の広報誌 『ファイナンス』 2012年8月号)。従って、ソリスト的な天才的専門家のアインシュタイン博士が、必ずしも優れたオルガナイザーではなかったことも頷ける (彼は賢明にもイスラエル大統領就任を鄭重に辞退している)。

 理研の歴史は今でも輝いている-特に専門の壁を除去して自由な研究を推進し、更には実用化・事業化にも才能を発揮した大河内正敏所長や、湯川秀樹や朝永振一郎等、若手の優秀な研究者を指導し"親方"と慕われた仁科芳雄所長の話は感動的だ。偉大な物理学者、ニールス・ボーアが1937年に来日した際、湯川先生は2年前に完成した素粒子に関する論文をボーアに見せたが彼の反応は冷たかった。にもかかわらず、仁科先生は温かく湯川先生を激励したのだ(ボーアの判断が間違っていたことは、その直後に判明する...)。

 だが、物理学のみならず世界情勢にも慧眼を持っていた仁科先生でも、1945年の原爆投下時は辛い挫折を経験した-広島へ被曝調査に向かう直前の8月7日、理研の部下へ宛てた手紙には傷ついた心情が綴られている-「(原爆の開発・投下に関する)トルーマン宣明が事実とすれば、吾々...(日本の原爆)研究の関係者は文字通り腹を切るときが来た...。その時期については廣島から帰って話をするから、それ迄東京で待機して居て呉れ給へ」、と。

 敗戦後、理研が雄々しく復活した如く、近い将来一段と逞しい形で登場し、日本経済の復権に再び貢献することを願っているのは筆者独りではあるまい。

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「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第63号(2014年7月)