コラム 国際交流 2014.06.03
内外の友人の多くがAbenomicsの"第三の矢"に注目しているなか、工学分野の或る入門書(R. Spilsbury, Magnetism, 2014)を読んだスイスの友人から電子メールが届いた--「ジュン、Tokushichi Mishimaを詳しく教えてくれる?」、と。1932年9月、東京帝大の三島徳七助教授が米国の専門誌(Iron Age)に発表した画期的な永久磁石は今でも偉大な"innovation"として語られ、電気工学における世界的権威、佐川眞人氏もこの磁石が、海外の学会で近年触れられたことを伝えている(例えば「KS 鋼の発明からNdFeB 磁石まで」(2004)を参照)。
携帯電話からハイブリッド自動車に至るまで様々な用途を持つ永久磁石だが、科学技術史から観た筆者の知的関心対象はレーダーだ。レーダーの主要な要素技術には、永久磁石を内蔵しマイクロ波を発振するマグネトロンと、マイクロ波を受発信するアンテナがある。そしてマグネトロンもアンテナも、戦前から我が国が先行した要素技術であった(前者は岡部金治郎が、また後者は八木秀次と宇田新太郎が発明・改良したもの)。
しかし日本がこうした要素技術に本格的に取組んだのは、1942年2月のシンガポール陥落以後だ。英国のレーダーを鹵獲(ロカク)し、その操作法を記した手帳(Newmann's note)の中に"Yagi Array"の名を発見したが、初めは"ヤギ"なのか"ヤジ"なのか、読み方すら帝国陸軍は分らなかった。実はこれは当然の事態で、1941年に八木博士がアンテナの特許の期限延長を申請したのに対し、商工省は「重要な特許とは認めがたい」との理由で申請を却下していたからだ。が、鹵獲後に事態は急転し、八木博士は1942年3月末に東京工業大学から学長として迎えられ、1944年12月には内閣の技術院総裁に就任する。しかし、レーダーを帝国海軍は"電波探信儀"、帝国陸軍は"電波警戒機"等と呼び、呼称すら統一出来ずに敗戦を迎えたのである。敗戦直後、米国は戦時中の日本のR&Dに関して、MITのカール・コンプトン総長やエドワード・モーランド工学部長等を派遣し、報告書(Report on Scientific Intelligence Survey in Japan (the so-called "Compton-Moreland Report"), Nov. 1945)を提出させるが、八木博士はコンプトンやモーランド等に対し次のように語った--「帝国陸海軍は協力せず、民間科学者を"あたかも外国人"であるかのように処遇した」、と。
太平洋でも、また大西洋でも、長足の進歩を遂げた英米のレーダーは、日独両軍を徹底的に撃破した。ドイツのカール・デーニッツ元帥は、「敵の全ての新型ないし強力な兵器、即ち、護衛空母、輸送船団護衛部隊、そして"超長距離飛行機"の戦果は、主として波長10cmの新型レーダーの援用によって為されたのだ。レーダーにより、敵は昼夜の別なく如何なる天候条件においても、暗闇、霧、そして視界不良の中で海上と上空からUボートを発見し、攻撃することが可能となった(Alle diese neu oder verstärkt eingesetzten Kampfmittel des Gegners--Geleit-Flugzeugträger, Unter- stützungsgruppen und »sehr weitreichende Flugzeuge«--erzielten ihre Erfolge im wesentlichen mit Hilfe eines neuen »Radar«--Geräts mit der kürzesten Wellenlänge von 10 cm. Das Radar ermöglichte dem Gegner zu jeder Tages- und Nachtzeit und bei jeder Wetterlage, bei Dunkelheit, Nebel und Unsichtgkeit, die U-Boote über Wasser festzustellen, anzufliegen und zu bekämpfen)」と回想録(Zehn Jahre und zwanzig Tage)の中で語った。レーダーに探知され、また撃破された日本の艦艇と航空機、そしてそれらに乗っていた優れた将兵の悲劇を想うと、これは忘れがたくまた心が痛む教訓である。