コラム  国際交流  2014.05.02

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第61号(2014年5月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 5月初旬に21世紀のアジアを討議する会合に出席するため(Asia Vision 21、小誌第38号(2012年6月号)を参照)、関連した文献を読んでいた(例えば次の2の中の①Can China Lead? (Harvard Business School Press, Feb. 2014)や②The Dragon and the Eagle (M.E. Sharpe, Mar. 2014)を参照)。①はハーバード・ビジネス・スクール(HBS)の研究者による綿密な調査に基づく著作で中国の将来に関し楽観出来ない事を示している。特に重要な概念として3人の著者はドイツ語で特記し、"Unternehmergeist (企業家精神)"を挙げている点が注目される (p.104)。

 因みに著者の一人ウィリアム・カービー教授はHarvard China Fundの会長を務めており、画期的著作と称えられた教授のGermany and Republican China (Stanford University Press, 1984)は中国語に2度も訳されている(残念ながら邦訳はない)。同教授の本に関して、優れた日本の著作『ナチス・ドイツと中国国民政府 1933-1937』(東京大学出版会 2013年)の著者、成城大学の田嶋信雄教授は「中国語史料のほかにドイツ語史料をも縦横に用い、戦間期中独関係史を生き生きと描写するとともに、1930年代中国に対するドイツの政治的・経済的・社会的・軍事的影響の大きさを強調し、中独関係史研究の重要性を鮮明に示した」と記している。

 昔も今も、中国をバイラテラルな日中関係だけで観察することは危険だ。カービー教授の著作や中国人研究者の著作(例えば王正華氏の『抗戰時期外國對華軍事援助』(環球書局 1987年)や马振犊氏の«友乎? 敌乎?: 德国与中国抗战» (广西师范大学出版社 1997年))が示す通り、現在と同じく戦前も日本を含む諸外国が中国と密接な関係を持っていた。しかし、戦前の日本はどこまでそれを認識していたのか。筆者の疑念は消えていない。

 1935年、ドイツは軍事産業育成と外貨節約のため、軍需品輸出会社(Ausfuhrgemeinschaft für Kriegsgerät (AGK))を設立したが、第一の取引相手国は中国であった(例えばC. M. Leitz, "Arms Exports from the Third Reich, 1933-1939," Economic History Review, Feb. 1998を参照)。帝国陸軍参謀で戦後は陸上幕僚長を務めた杉田一次氏は、切歯扼腕し「情報の見地から反省せしめられることは、中国におけるドイツ軍事顧問団の活動状況を早期に発見できなかったことである。中国大陸には陸・海、他の情報機関があり、またドイツには有力な機関が存在しながら数年間に及ぶ独軍事顧問団の活躍を把握し得なかった...もし、それを知りつつ他方で、日独防共協定締結へと進んだとすれば...」と、幻覚と妄想に耽溺する当時の日本を嘆じた (『情報なき戦争指導-大本営情報参謀の回想』 (原書房 1987年))。

 筆者が安堵しているのは少数の日本人だけは中国の巧妙でしたたかな対外戦略を認識していた史実だ-例えば1937年7月22日、駐独日本大使館の柳井恒夫参事官(柳井俊二元事務次官・元駐米大使の父上)はドイツ外務省のヴァイツゼッカー総合外交政策局長を訪れ、対中武器輸出に関して抗議を行った。その一方で、ベルリン駐在武官の大島浩少将は自らのドイツ語に酔いしれていたためか、ヒトラーやリッベントロップの言葉を鵜呑みにして冷静かつ丹念に情報分析出来なかったようだ。また当時の外務省は帝国陸軍から「"害"務省」と揶揄・蔑視されたため両者間の情報共有は殆ど期待出来なかった。かくして外務省の抱いた懸念は、Hitlerite Germanyに心酔した近衛内閣に完全には伝わらなかったと考えられる。我々は、こうした苦い教訓を礎に、情報の収集・整理・選別・分析・評価・活用に注意しなくてはならない。

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