コラム  国際交流  2014.04.01

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第60号(2014年4月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 3月24日早朝、石川遼氏等プロ・ゴルファーのArnold Palmer Invitationalでの妙技をNHKの衛星放送で観戦しつつ史上屈指の名選手ベン・ホーガンによる冊子(Five Lessons)の一節を思い出していた-"In some important respects, tournament golf and golf are as foreign to each other as ice hockey and tennis." 確かにこの世には同じスポーツとはいえ、"アイス・ホッケーとテニス"ぐらい「似て非なる」ものが蔓延している。

 これは様々な「概念」に関しても当てはまる。小誌40号(2012年8月)で触れた通り、筆者は東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)に協力調査員として加わった。その時に筆者は、委員長である黒川清先生に対して"情報共有とrisk communicationの重要性"という視点から進言した。が、委員長の返事は"想定外"のモノであった-「栗原さん、リスク・コミュニケーションという言葉は報告書では使用しないよ。何故ならカタカナで表記した途端、多くの日本人が"解かった"と錯覚するから」、と。

 様々な西洋の概念が我が国に"闖入"しているが、カタカナで表記した途端に我々が完全に理解したかのようになる「概念」は少なくない。そして今、筆者を悩ませている言葉は"accountability"だ。東京大学の山本清教授は、『アカウンタビリティを考える-どうして「説明責任」になったのか』(NTT出版 2013年)の中で、「accountabilityの訳は...responsibilityの訳と区分されず...言語や文化が...(英米と)異なる我が国では、『説明』という言葉に『責任』が付加されているから、説明する責任といった語感に変わってしまう」と述べておられる。確かに、"intelligence"と"information"が示す通り、定義を曖昧なままにして、あたかも理解出来たかのように錯覚・混同してしまう「概念」は少なくない(例えば、慶應義塾大学の赤木完爾教授は、"intelligence"を情報と訳し、"information"を資料として情報を抽出する以前の未評価の素材と訳されている)。

 これらと同様に国際基督教大学の武田清子教授は、"liberalism"を指して日本で「リベラリズム(自由主義)が正しく理解されたことは稀」と語っておられる。早稲田大学の碩学津田左右吉先生も、福澤諭吉先生が「リバチイまたはフリイダムにはまだ適當な譯語が無いといひ...試みに擧げたもののうちの一つに『自由』があるが、それについて、言語は我儘放盪で國法をも恐れぬといふ語ではない」とわざわざ注記したことを指摘し、「自由と譯されてゐるヨウロッパ語に適切なものがあるかといふと、それは無ささうで...然らばどうしてそれが無いか、逆にいふと、ヨウロッパにどうしてさういふ特殊の語があるか、實はそのことが眞の問題である」と、小論「自由といふ語の用例」の中で述べておられる。

 こうした理由から黒川委員長のご指摘はまことに示唆的だ。碩学ドラッカー大先生は、或る人が自分の思いを"information"として伝えようと欲し、発信したとしても、受信者が、発信者の身振りや声の調子、そして環境全体や文化的・社会的な意味と共に受け止め、理解しなければ、"communication"は成立しない事を強調した。福島原発の事故発生時も当局・専門家が"information"を発信したつもりだったが、受信者-汚染地域の避難民を含む日本国民、更には放射能に対して恐怖心を抱く世界中の人々-から理解されず、また"intelligence"として認識されず、従って"communication"が成立しなかったのである。


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「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第60号(2014年4月)