メディア掲載  国際交流  2014.03.06

「内なる国際化」に学ぶこと

電気新聞「グローバルアイ」2014年3月5日掲載

 日本国内で外国人旅行者が増加している。この現象の重要な意義は、海外からの来訪者を通じて"内なる国際化"を体感し、海外の長所・短所を学ぶ一方、世界を鏡として日本の真価を学ぶことが出来る点だ。筆者も1月末に米国の友人と2人で広島、宮島、倉敷を旅行し、友人と共に筆者も日本の真髄を再発見した。

 広島では、原爆ドームや平和記念資料館を案内すると共に、赤穂浪士である大石内蔵助の遺児、大三郎が安芸広島藩に仕えた話を伝え、武士道等の日本古来の倫理観・価値観に関して再考した。また宮島では厳島神社と平家との関係を解説した。先祖がドイツ系移民である米国の友人から、第二次世界大戦中、親戚同士で敵味方に分かれて戦った親族の悲劇を聞きつつ、筆者は保元の乱での源平一族の栄枯盛衰を伝えたのである。そして、このワシントンから来た友人に対し「日本には"花は桜木、人は武士"という言葉がある。ワシントンの桜は、太平洋戦争中も美しかった。春になったら日本の美しい精神を思い出してね」と語った。

 倉敷では丁度50年前の3月に当地で開催された第2回日米民間人会議について意見交換をした。尚、第1回会議はその2年前の1962年に米国北東部に在るダートマス大学で開催され、ハーバード大学のディヴィッド・リースマン教授やアーサー・シュレジンジャー大統領特別補佐官等が、東アジアにおける国際関係を討議している。50年前と今とでは冷戦時と冷戦後で大きく環境が異なるが、当時の東アジア情勢は、今と同様に緊張した関係が蔓延していた。コロンビア大学のズビグニュー・ブレジンスキー教授等、第1回会議に参加した米国側代表者全員が、50年前に美しい街、倉敷で再会した場所を訪れると共に、歴史的教訓を学んだ次第である。

 キューバ危機を克服した直後の米国は、中ソ両国に対する警戒心を高め、1962年12月にワシントンで開催された日米貿易経済合同委員会では、ケネディ大統領が中国封じ込め政策への日本の積極的協力を要請し、極東担当のアヴェレル・ハリマン国務次官補も、米国側の意向を重ねて強調した。更に米国側は、北海道に核実験探査装置の設置を提案したのであった。翻って中国はインドとの国境紛争を経験し、後年改正されて人民解放軍による「三戦」--世界世論、国際法、そして民衆心理の3領域での政戦略--の任務を与えることで有名になった"解放軍政治工作条例"を公布したばかりであった。

 この厳しい情勢下で開催された倉敷会議で活躍したのが倉敷紡績の大原總一郎社長だ。大原社長は日中国交回復以前に中国人民の生活水準向上を願い、ビニロン・プラント輸出に精力を傾けたが、その目的は、経営者として利潤を追求する責務だけでなく、公器としての企業の倫理的責任も含んでいた。この純粋経済分野での企業の社会的責任(CSR)が、厳しい国際関係の中においても有効である事は、今では専門家の中で既知の事実だ。大原氏は東京電力の木川田一隆社長と共に、いち早くCSRの課題に取り組んだ企業人である。

 かくしてグローバル時代の日本の企業家精神を、"内なる国際化"を通じて筆者は再考出来たのであった。だが、同時に自らの貧弱なコミュニケーション能力を痛感した事も告白しなければならない--武士道を説明するために古典落語「柳田格之進」を引用したが、志ん朝の名調子の様にはいかず、また日本が誇る伝統料理では、松笠慈姑(まつかさくわい)を英語で説明する際に大変苦労した次第である。