コラム  国際交流  2013.12.03

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第56号(2013年12月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 11月中旬に硫黄島を訪れた。東京帝国大学出身の学徒兵で、この島で23歳で斃れた蜂谷博史が遺した和歌「爆音を壕中にして歌つくる あはれ吾が春今つきんとす」や「硫黄島 雨にけぶりて静かなり 昨日の砲爆夢にあるらし」を口遊(くちずさ)みつつ擂鉢山(すりばちやま)で平和への想いを一段と強めた次第である。同じく学徒兵で慶應義塾大学出身の特攻隊員、上原良司も22歳で沖縄戦に参加したが、彼は戦死直前の日記の中で「敵を知り己を知らば百戦危からずと孫子はいえり。現在の日本において、敵アメリカを真に知れる者ありや」と疑問を記している。彼等を襲った悲劇から約70年経た現在、幸いにして米中両国は日本の敵ではない。が、良司が憂慮した事--両国を真に知れる者の存在--については、今も注意すべきであろう。

 内外にかかわらず情勢や世論を判断する事は本当に難しい。自衛艦隊司令官を務めた香田洋二元海将は、本年6月に北京で開かれた中国の専門家との会合(东北亚安全论坛)で、歴史の教訓として山本五十六提督の誤断に言及された--同提督は「真珠湾攻撃を行ったが、狙いは米海軍太平洋艦隊ではなく、米国民の心であった。しかしながら、結果的に山本大将の狙いは大きくはずれ、米国人の心をまとめてしまい、以後3年間日本は米軍に徹底的にやられた。国と国との関係で重要なのは人の心を掴むことである」、と。

 戦前の知米派のひとり、近衛文麿は秀作『欧米見聞録』を著したにもかかわらず、日米戦を阻止出来なかった。在米経験の長い松岡洋右だが、外務省の顧問を戦前14年務めたフレデリック・ムーアは、回想録(With Japan's Leaders)の中で"How Matsuoka, with his long experience in the United States and continued association with Americans, could have so misjudged our temperament was inexplicable"と、松岡の鈍い対米感覚を指摘した。東條英機は、寺本熊市や山内正文等の優れた"知米派"、また世界情勢を俯瞰する"国際派"(本間雅晴や辰巳栄一等)に頼らず、米国滞在時は邦字新聞を読んでいただけの佐藤賢了を帝国陸軍"知米派"として頼りにしていた。

 中国に関しても自称"知中派"に過度に頼ることは注意を要する。国際日本文化研究センターの戸部良一教授は、国際情勢を俯瞰せず、視野狭窄的な判断をした戦前の中国専門家(Sinologists)に関して次のように記しておられる--「軍閥や地方の動向に密着しすぎて、中国全体の動きを見失いがちで...『満蒙通』や『山西通』あるいは『広東通』といった、中国の特定地域に精通したスペシャリストは出たが、中国全体を見渡してその動向を的確に分析」出来なかった、と(『日本陸軍と中国』)。こうした批判は、戦前もなされていた--関東軍参謀長の斎藤恒少将は、陸軍が「袁(世凱)は諾せり、段(祺瑞)は語れり、張(作霖)は誓へりと片言(ヘンゲン)隻句(セック)を信頼し」、また「斯く申す小生も孫黄の偽せ真剣振りに惚れ込」んだと、自嘲気味に記している。

 英国The Times紙は、嘗て満洲事変こそが世界大戦の淵源(fons et orio)と記したが、これに関し北岡伸一東大名誉教授は次のように述べておられる--「第二次大戦後、...日本は、好むと好まざるとにかかわらず、対米協調路線の再構築に迫られた。...首相の条件は、...英米から受けがよく、外交に強いものであった。まず幣原が思い出され、次いで吉田が浮上した...2人は浜口内閣の外務大臣と外務次官であった。戦争が終わってみると、戻るべきは満州事変以前の時代であった」(『官僚制としての日本陸軍』)。


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