コラム  国際交流  2012.03.13

現在の経済危機について(3):米国の金融危機対応の失敗

シリーズコラム『小手川大助通信』

1.
次に、金融機関のベイルアウト(救済)の問題です。米国では金融システムを守るため、公的資金の注入を行って銀行を救済しましたが、今回の米国のやり方は、我が国の経験から見て、2つの問題があります。第1は、金融機関の財務諸表についての不安感が払拭されていないことです。我が国の例を見ても、金融機関に関する不安を一掃するには、
  (1)「時価会計」を用いて公的機関による厳格な金融機関の検査を行い、主要金融機関の財務内容についての完全な把握と公表を行い、
  (2)不良債権の完全な処理に必要な金額の公的資金の注入を行って、不良債権を完全に処理し、
  (3)金融システムに不安がないことを市場に明らかにする
ことが必要です。公的機関による検査を行わずに各銀行横並びで行われた我が国の1998年3月の公的資金の注入(総額1.8兆円)が失敗に終わったのに対し、時価会計に基づいた公的検査を行った上で主要行それぞれについて必要な、異なった額の資本注入が行われた1999年3月の措置(総額7.5兆円)は成功裏に終わりました。そして、その結果、誰が不良債権処理の負担をしたのかも市場に明らかになってきます。我が国の場合、不良債権処理の総額は100兆円弱に上りましたが、民間金融機関が毎年の営業利益を原資として大半の処理を行い、公的な負担は約10兆円にとどまりました。以上の点は、我が国の経験から、私が2008年の春からずっとハーバードのビジネススクールなどで説明してきたところです。

2.
ところが、米国においては、まず、「時価会計」が米国議会による公認会計士協会に対する圧力により、2010年秋まで凍結されました。また、金融機関に対する検査も、我が国で行われたような個別貸付に対する引当てに基づいた厳密なものではなく、「ストレステスト」という、マクロ経済予測に基づいた概算を基礎としており、しかも、現場で担当した人たちの声を聴くと、この結果でさえも、この悲惨な内容を見て驚いた当局者により大幅に緩和されたということです。これでは、米国の金融機関が完全に健康体になったものと市場は判断することはできません。主要行に対し資本注入が行われましたが、それで本当に各行の不良債権処理に目途がついたのか、外部の投資家は判断できないのです。

3.
更に、一番問題になった証券化商品について、ストレステストにおいては、当初各金融機関が独自に行った査定よりは厳しい引当率が適用されていますが、我が国の経験に照らせばこれも全く十分とはいえません。不動産という担保を有した我が国の不良債権の処理においても、割引率は9割前後に及んだことを考えれば、そのような担保を有しない証券化商品の割引率は極めて高いものでなければなりませんが、実際の引当率は非常に甘いものとなっており、不良債権の最終処理をした場合の金融機関の財務内容についての疑問を払しょくする内容にはなっていません。更に驚くべきことには、資産サイドに保有している証券化商品に対して甘い率で引当を積むという問題だけでなく、負債側の証券化商品、即ち当該金融機関が組成して他の金融機関などに売却した証券化商品についても、当該商品についての市場が存在していないため相当な安価で買換えできるという論理を使って負債を減らすという信じがたい処理を行っています。そしてこのようにして発生した期間利益に基づいて多額のボーナスを支払っています。繰り返しになりますが、公的機関による厳密な検査に基づく公的資金の注入とその結果についての公表なしに、金融機関の健全性についての不安を払拭することは困難です。

4.
第2の問題は、今回の問題を起こした経営陣の責任追及を行うことなしに、公的資金の注入を先行させたことです。皆さんの記憶にも残っていらっしゃるとおり、我が国で1997年から1998年にかけて起こった金融危機の際に清算、あるいは公的管理となった三洋証券、山一證券、北海道拓殖銀行、長銀、日債銀の経営者は、三洋を除き全て起訴されました。また、監督官庁である大蔵省や日銀の職員も何名か逮捕され有罪判決を受けましたし、自殺した職員もいました。その後最高裁で長銀や日債銀の幹部については無罪となったことを見れば、果たして起訴することが相当だったのかどうかという疑問はわきますが、このような形で金融機関の経営者や監督者の責任が司法上問われました。
 これに対し、米国ではこのような責任追求は全く行われていません。なぜそうなっているかを考える際に、金融機関、特にウォールストリートは政治的に非常に力を持っているということを頭においておく必要があります。我が国においては一連の金融に関する醜聞や金融機関の清算、責任者の逮捕を通じて金融機関や監督責任者に対する批判が高まり、彼らの政治的影響力は大幅に減殺されました。米国の場合にはとりあえず公的資金の注入により金融機関の清算はリーマンを除いて避けられたため、金融機関は米国議会に対する影響力を持続し、抜本的な金融システムの見直しが政治的に困難となったばかりか、今回の問題が発生した原因の究明も不十分なものとなってしまいました。そして、何にも増して、金融機関幹部の責任を追及することは全く困難になってしまいました。幹部の追求なしに公的資金を注入して金融機関を救済したため、国民の間には、後に詳しく述べるように、政治に対する抜きがたい不信感が醸成されることになりました。即ち、「なぜ、我々がまじめに働いて納めた税金を、高額のボーナスを受け取り、今回の問題を引き起こした金融機関の救済のために使われたばかりか、金融機関のトップは責任を追及されることもなく逃げ遂せたのか。」というやり場のない不満が選挙民の間に渦巻いているのです。この結果、米国の金融機関トップの意識はリーマンショックの前と全く変わっていません。これではまた同じような過ちを犯す可能性が非常に高いものと危惧されるところです。