コラム  国際交流  2011.11.22

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第31号(2011年11月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない。ハーバードにいる一研究者である筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 残り僅か2ヵ月となった2011年は、諸兄姉同様に感慨深い年となりそうだ。年初には、MITの創立150周年や中国辛亥革命百周年について、また先の9月には、「9/11」の10周年と「九一八(満州)事变」の80周年について多くの友と語り合った。そして12月には、"Pearl Harbor"70周年で友人達と議論を深めることになりそうだ。が、筆者個人としては「3/11」の悲劇、そして百周年を共に迎えた『薔薇の騎士(Der Rosenkavalier)』とソルヴェー会議(les Congrès Solvay)を心に留めておきたい。
 ソルヴェー会議とは最先端の物理学者と化学者が集う会合だ。世界の知識社会の中で日本の存在が薄れゆく現在、日本のこの学界は今尚輝きを保ち続けている数少ない分野の1つで、それが故に筆者も門外漢ながら誇りに思っている。因みに同会議に最初に招待された日本人は湯川秀樹博士だ。1939年秋の会議のために6月に日本を発ったところまでは良かったが、9月には世界大戦が勃発し会議は中止になってしまった。このため博士は日本郵船の「靖国丸」で9月14日に米国に渡り、プリンストンでルーズヴェルト大統領に原爆製造を8月に進言したばかりのアインシュタイン博士と会い、カリフォルニアでは後に原爆開発(「マンハッタン計画」)の指導者となるオッペンハイマー博士の要請で講演を引き受けた。まさしく「科学者は祖国愛が強くとも、仲間同士の間に国境は無い」という態度を体現した博士初の洋行だった。さて専門家ならご存知の通り、湯川博士の初洋行には、超一流の国際的人脈を持つ恩師の仁科芳雄博士による影の努力が大きく働いていた。仁科博士は国際感覚が鋭く、「日独伊防共協定」が成立した翌日、1937年11月7日の昼食会で、「とうとう日本も、世界の"ならずもの"の仲間入りか!」と吐き捨てるように仰ったという。翻って当時の日本のリーダー、近衛文麿首相は欧米列強間の政治情勢を見誤り、「防共協定」締結に歓喜し、更には父君(近衞篤麿)が注力した日中関係をも悪化させた「お方」だ。しかも自らはオスカー・ワイルドの本(The Soul of Man under Socialism)を翻訳(誤訳?)するなど国際感覚に優れた人間であるとの錯覚に陥っていた御仁であった。そして今、筆者は近衛首相と仁科博士との「国際感覚」の「差」が生んだ大日本帝国の命運を想いつつ、戦前より一層グローバル化した世界の中での日本の将来を考えている。・・・



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「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第31号(2011年11月)