イベント開催報告 グローバルエコノミー
去る8月5日(水)および6日(木)に、マレーシア・クアラルンプールのAsia School of Businessにて、The Asia-Pacific Search and Matching (APSAM) Workshopが開催された。本会合はAsia-Pacific Search and Matching Research Networkによる第6回のワークショップであり、アジア太平洋地域を中心に、北米、欧州、豪州で活躍する研究者が参加した。今回の特徴は、サーチ・マッチング理論を、「誰が市場に参加し、誰と取引し、どの条件で取引が成立するか」を考える共通の分析枠組みとして、貨幣・金融、企業行動、制度設計へ広げていた点にある。

今回の対面ミーティングでは、招待講演としてShengxing Zhang(Carnegie Mellon University)を迎えた。Plenary Speechでは、市場を「すでに存在する場」として所与にするのではなく、誰が市場に参加し、誰と取引し、どのような摩擦の下で交換が成立するのかを明示的に考えることの重要性が強調された。プログラムでは、招待講演1件と論文報告11件が行われた。テーマは大きく、(1)デジタル通貨、(2)銀行・流動性・為替、(3)マクロ経済と制度、(4)労働市場・プラットフォーム・起業、の四つに分かれる。
デジタル通貨のセッションでは、Chenmiao Li(University of Tokyo)が“Stablecoins, Sovereignty, and Currency Competition”を報告した。ステーブルコインを単なる便利な決済手段ではなく、既存の法定通貨と利用者を奪い合う「競争相手」として捉える研究である。民間通貨の普及が決済の選択肢を増やす一方、どの通貨が日常の取引で使われるかを変え、政府の通貨発行益や金融政策の効き方にも影響しうることを示した。続いて、Yanjie Cui(The University of Sydney)が“The Optimal Design of Central Bank Digital Currency”を報告した。この研究が示すのは、CBDCの評価は「導入するか、しないか」だけでは決まらないということである。決済の便利さと銀行預金・銀行投資への影響のバランスに応じて、既存の金融仲介との関係まで含めた設計が必要になることが強調された。
銀行・流動性・為替のセッションでは、Timothy Kam (Australian National University)が“Granular Business Lending Frictions, Banking Concentration and Stability”を報告し、個々の企業が直面する借入の難しさが、銀行市場の集中と結びつくことで、金融システム全体の安定性にどのような影響を及ぼすかを考察した。Lu Wang (University of Western Australia)による“Asset Market Participation, Liquidity, and Monetary Policy”は、すべての主体が同じように資産市場へ参加できるわけではないという現実に注目する。金融政策は金利を変えるだけでなく、市場に参加できる者とできない者の間で流動性の価値を変えるため、その波及経路も市場参加の構造によって異なりうる可能性が指摘された。Yu-Chen Liu(National Taiwan University)が報告した“Foreign Exchange Intervention under Dominant Currency Paradigm: A New-Monetarist Approach”は、国際取引がドルのような支配通貨で決済される世界では、為替介入が価格の硬直性に頼らなくても実体経済を動かしうることを示した。介入は自国通貨と支配通貨の購買力を変え、誰がどの通貨で所得を得るかによって利益と負担を再配分する。さらに、介入に関する情報が国ごとに偏れば、競争的な通貨切下げを誘う可能性がある。
マクロ経済と制度のセッションでは、Aniket Baksy(University of Melbourne)が“Cyber Risk in General Equilibrium”を報告した。サイバー攻撃を、企業の参入、規模、防御投資を含めたマクロ経済上のリスクとして捉えた点が特徴である。小企業は攻撃しても得られるものが少なく、大企業は防御に多く投資する。その狭間にある中規模企業が最も攻撃を受けやすくなる。被害後の救済は企業の事前防御を弱める一方、防御投資への支援は経済全体の損失を抑えうるという、政策設計上の重要な違いも示された。Tao Zhu(Hong Kong University of Science and Technology)が報告した“Individualism and Collectivism: An Economic Perspective”は、個人主義と集団主義を価値観の違いとしてではなく、人々が協力するときの分配ルールとして捉える。協力前の投資が互いに代替的か補完的かによって、個人の取り分を重視する制度と集団の成果を重視する制度のどちらが望ましいかが変わる。文化と呼ばれがちな違いを、協力の誘因を形づくる経済制度として読み替える興味深い報告であった。
労働市場のセッションでは、Daisy Song(Carnegie Mellon University)が“Platform Competition of Temporary Help Services”を報告した。人材派遣会社を、労働者と派遣先企業の双方を集めて結びつける二面市場として捉え、派遣会社間の競争が料金、賃金、そして実際に成立する雇用にどう反映されるかを分析する。日本の行政データでは、競争が強い市場ほど派遣料金と賃金の差は小さいが、その主因は賃金上昇ではなく企業側の料金低下であることを確認した。理論モデルによって、マッチ成立の鍵は派遣先企業の参加にあり、労働者を保護するルールが企業参加や賃金設定を通じて労働者側へ負の結果をもたらす可能性を示した。Yota Isobe(Kyoto University)が報告した“Job Ladder with Career Requirements”は、上位の仕事に移るには一段下の仕事で経験を積む必要があるという「キャリアの階段」を明示的に組み込んだ。高生産性の仕事ほど大きく恩恵を受ける技術進歩は、労働者を上位職へ押し上げる一方、賃金格差を広げ、労働分配率を低下させやすい。反対に、幅広い仕事の生産性を底上げする技術は格差を縮める方向に働く。同じ生産性上昇でも、誰の仕事を強く改善するかによって分配への帰結が逆転しうることを示している。
起業と失業に関する報告では、Nam Phan (University of Western Australia)が“How to Become a Self-Made Billionaire”を報告した。本研究は、ベンチャーキャピタルに支えられた高成長企業をモデルに組み込み、創業者が「将来利益への権利」を通じて急速に富裕層へ移る過程を説明する。その視点から見ると、資産課税の設計では税率だけでなく、いつ、何を富として課税するかが決定的に重要になる。現金収入の乏しい開発段階の企業価値まで課税対象にすると、起業家の挑戦そのものを弱める可能性がある。Ayushi Bajaj(Monash University)が報告した“Liquidity and Unemployment under Uncertainty”では、不確実性と流動性の問題を労働市場と切り離さずに考え、資金を安全な形で持とうとする行動が求人や雇用の調整とどのように結びつくかが議論された。景気悪化時の失業を、企業の採用判断だけでなく、経済全体で流動性を確保しようとする行動の結果として捉える点に特徴がある。
今後も本会合では、アジア太平洋地域で活躍する研究者、とりわけ次世代を担う若手研究者を積極的に交えながら、国・地域・研究分野を越えた多角的な交流をさらに深めていく予定である。Search and Matching の理論的発展にとどまらず、デジタル通貨、金融仲介、サイバーリスク、労働市場、プラットフォーム、起業といった現実の経済構造の変化を共通の分析言語で捉え、理論・実証・制度設計の間を往復する議論を蓄積していくことが重要である。こうした継続的な知的交流を通じて、新しい研究課題を生み出すだけでなく、アジア太平洋地域からこの分野の国際的な研究潮流を牽引し、将来的には学術的知見に基づく政策論の形成にもつながる研究ネットワークへと発展させていきたい
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