メディア掲載  グローバルエコノミー  2025.11.21

最低賃金の決定過程に透明性を|学者が斬る・視点争点

週刊エコノミスト【学者が切る・視点争点】(2025年11月18日号)に掲載

経済政策

政府が掲げる最低賃金1500円の目標は労働者には朗報だが、日本経済の成長を考えると疑問点もある。

◇生産力増強にマイナスの恐れ

中央最低賃金審議会(厚生労働相の諮問機関)は8月、今年度の最低賃金(最賃)を全国加重平均で1時間当たり63円引き上げて1118円とする目安を答申した。引き上げ額は昨年度の50円を上回り、現行方式となった2002年度以降、最大となった。

厚生労働省の『労働経済白書』(23年版)は、手にする時給と最賃の差が100円以内だった労働者の割合を取り上げた。フルタイム労働者の場合、05~09年平均は2.2%だったが、20~21年平均は4.4%に上がった。パートタイム労働者の場合、それぞれ18.3%、30.5%だった。最賃に近い時給しか手にできない人の割合が高まったことが分かる。最賃上昇が労働市場に与える影響はこれまで以上に大きくなっている。

◇国際的に低い日本の最賃

日本の最賃水準は他の先進国に比べ低い。経済協力開発機構(OECD)の23年データによれば、日本において平均賃金を100とした場合の最賃水準は40だった。この値はOECDがデータを明らかにする33カ国中21位で、他の主要7カ国と比べると、英仏50、ドイツ45、カナダ43より低く、米国18を上回る(イタリアはデータなし)。最賃を購買力平価の米ドルで換算すると、日本は6.9ドルで、独英13ドル、フランス12ドル、カナダ11ドル、米国7.3ドルより低かった(同)。政府が最賃を上げる背景にはこういった事情もある。

最賃上昇に関する新聞の論調は総じて好意的である。例えば『毎日新聞』は今年7月27日付の社説で「人材流出に歯止めを掛ける上でも地方における最低賃金の引き上げは重要だ」と指摘した。『日本経済新聞』も8月6日付の社説で「物価上昇が続くなか、非正規社員などの生活を下支えするために、大幅引き上げは妥当」とした。

最賃の引き上げは、労働環境や雇用などの点で論じられることが多いが、経済成長論の観点から見ると、企業の設備投資も注目すべきである。最賃上昇が投資に与える影響は主に2種類ある。一つ目は、労働力から機械への代替を通した影響である。理論上、賃金が上がれば、企業はコストのかかる労働力の代わりに機械に頼るようになり、省力化投資が進むだろう。二つ目は、企業の収益悪化に伴うものである。人件費が増えると、企業が利用できる資金はその分減るため、投資を減らす方向に影響するだろう。

正負の効果のうちどちらが大きいのか。豪シドニー大学のドッキ・チョ助教授(企業財務)は米学術誌『ジャーナル・オブ・ロー・アンド・エコノミクス』に寄せた論文で、米国の企業データを用いて分析した結果を明らかにした。それによると、最賃の引き上げによって賃金が下がりにくくなると、企業は資本ストックに占める投資の割合を減らす傾向がある。最賃が投資に与える二つの影響のうち、負の効果のほうが大きいことを示唆している。

日本の設備投資の水準は他先進国に比べ低く、これが経済停滞の一因といわれている。チョ氏の研究結果が日本経済にも当てはまるなら、最賃の上昇により設備投資がさらに低迷する恐れがある。労働者の待遇改善が重要課題であることは確かだが、長期的な経済成長には、賃金を上げるだけでなく日本経済全体の生産力を高める必要がある。生産力増強には最賃上昇がマイナスに働く恐れがある。

◇最賃政策の問題点

特に懸念されるのは、最賃の上がり方が急激な点である。要因の一つに、岸田文雄首相と石破茂首相(いずれも当時)が最賃の目標値を1500円と定め、早期に近づけようとしたことが挙げられる。物価上昇を考慮した実質ベースで見ると、24年までの10年間で、平均賃金は6%しか上がらなかった一方、最賃は23%上がった(図)。日本経済団体連合会の十倉雅和会長は昨年10月の記者会見で「達成不可能な(最賃の)目標を掲げることは混乱を招く」と述べた。最賃の急上昇が企業に与える混乱の程度は相当大きいと推定される。

さらに問題なのは、最賃が次にいつ、何円上がるのか明確でない点である。人件費の見通しに関する不確実性が大きい場合、企業は長期の成長投資を計画しにくくなる。投資なくして生産性、そして賃金の全体的かつ持続的な上昇はない。今後、最賃を定める際はさらなる透明性と企業側の理解が求められる。

最賃決定の過程に比べ、日銀が政策金利を決める過程は透明性が高い。政策委員が参考にする経済指標は消費者物価指数などと明示され、考え方は講演などを通してある程度事前に明らかになっている。さらに、日銀は非常時を除き、政策金利を急激に変えることはなく、通常は金融市場と対話をしながら徐々に変更する。政策金利と最賃には、国民生活に影響が大きい政策変数という共通点がある。最賃の決定過程を改善する際、参考にすべきではないか。

内閣府資料によれば、フランス政府は自国の最賃を裁量的に変えられるが、所得階層の下位20%にとっての物価上昇率が2%を超えた場合、最賃は物価上昇率分だけ自動的に上昇する仕組みという。最賃上昇率が平均賃金上昇率の50%以下である場合も自動的に調整される。東京大学の神吉知郁子教授(労働法)が1月23日付の『日本経済新聞』に寄せた論考で指摘しているように、フランスの状況は最賃の目標値を政府が裁量で決める日本とはかなり異なる。

今後は、例えば、「物価上昇率と平均賃金上昇率の加重平均値を賃金上昇率の目安とする」といったルールを定め、それに基づいて最賃を決める方法も検討に値するだろう。

本来、政府が賃金引き上げを後押しするのであれば、企業負担の大きい賃金規制ではなく、所得税減税により、最賃に近い賃金を得る労働者を含む全労働者の賃金を上げるのが筋である。政府は今後、最賃アップに頼りすぎず、所得税制の改革とその財源確保にも知恵をしぼるべきだろう。