メディア掲載  グローバルエコノミー  2025.08.22

農業政策の歴史(上)

政策研究フォーラム「改革者」(20258月号)に掲載

農業政策

戦前から1961年農業基本法まで

食糧管理制度の流れとなる高米価政策、農産物や農業資材の販売から銀行、保険業務まで行う農協制度、自作農を作った農地改革を源とする農地制度が農政の柱である。これらがどのようにして今日まで至っているのかを説明する。最初は農政官僚たちが農地改革を達成し構造改革を実現しようとした1961年の農業基本法までである。

食糧管理制度の成立

1918年の米騒動で米自給の困難性が判明したため、朝鮮と台湾の植民地で米生産を増加させ帝国全体で自給が達成できるようにした。ところが植民地からの移入が増加したため米価が低下した。農林省は植民地を含めた減反を検討したが、陸軍省の反対に阻まれた。

1939年朝鮮と西日本で米が大不作となり、米は一気に過剰から不足に転換し、タイ等から米を輸入するようになった。自由経済の下では貧しい人は食料を買えなくなる。生産、流通、消費を統制し、政府が生産者から米・麦などを買い入れ、すべての国民に必要量を均等に安い値段で供給する配給制度(卸売業者、小売業者、消費者まで各段階は11で結びつき、定められたルート以外の購入は禁止された)を実施する食糧管理法が1942年に成立した。

戦時中は、二合三勺が11日当たりの配給量とされた。他に副食がほとんどない米だけの食生活だったので、この配給量でも必要なカロリーの半分くらいしか賄えなかった。しかし、タイ等からの食料輸送船をアメリカに沈没させられ、配給量を二合一勺に削減せざるを得なくなったとき、日本は降伏した。

食糧管理法は本来消費者保護の法律制度だった。戦後政府が農家から買い入れる価格はヤミ値の8分の1の低価格だった。農家から強制的に米を供出させるために、GHQや警察権力が使われた。

農地改革と農業協同組合の設立

戦前の農家が貧しかったのは、収穫した米の半分を現物で小作料として納めさせられたことと、耕作規模が零細だったためである。地主は面積当たりの収量を上げようとしてたくさんの小作人に耕作させた。地主制は小農制だった。山形県庄内の本間家のような所有地が2千ヘクタールに及ぶような大地主は極めて少なく、現在の農家規模よりも小さい3ヘクタール未満の零細地主が7割以上を占めていた。

農地改革は日本政府の発案によるものであり、戦前から小作人解放のために努力した農林官僚の執念が実現したものだった。しかし、これによって自作農=小地主が多数発生し、零細農業構造が固定された。

他方、最初農地改革に関心を示さなかったマッカーサーのGHQは、その政治的な重要性に気付く。終戦直後、小作人の開放を唱え、燎原の火のように燃え盛った農村の社会主義運動は、小地主となった小作人が保守化したため、急速にしぼんでいった。これを見たGHQは、保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようとして、農地法(1952年)の制定を農林省に命じた。農林省は、規模拡大のための“農業改革”を行おうとしていたが、押し切られた。農地法が目的としたのは、耕作者が所有者だとする自作農という農地改革の成果を固定することだった。農地法は、小農固定による強力な防共政策であり、保守政党の政治基盤を築いた。

この保守化した農村を組織し、自民党を支持したのが、戦後作られたJA農協だった。戦後の食料難時代、農家は価格のいいヤミ市場に米を販売してしまうので、政府に配給する米が集まらない。このため、農林省は、1948年食料の供出団体として活用するため、戦時中の統制団体を農協に改組した。

農協には、他の法人には禁止されている銀行業務と他の業務の兼業が認められ、これが農協発展の基礎となった。そればかりではない。統制団体を引き継いだ農協は、経済活動を行うとともに政治活動も行う団体となった。ここに、戦後政治を規定する最大の圧力団体が出現した。

日本医師会も圧力団体だが、それ自体が経済活動を行うわけではない。欧米の農業の政治団体らも同じである。しかし、JA農協だけは違う。その政治運動は、農家の利益というより自己の組織の利益を考慮したものになる。しかも、政治活動は農業で行っているのに、それで得ようとする利益は金融分野である。後に高米価で滞留した多数の兼業農家は、そのサラリーマン収入等をJAバンクに預金し、JAバンクは預金量100兆円を超える日本有数のメガバンクに発展した。JA農協が高米価・減反政策を推進する理由はここにある。

挫折した農業基本法

農業基本法は“農工間の所得格差の是正”を目的に掲げた。農業所得は、農産物価格に生産量を乗じた売上額からコストを引いたものである。価格または生産量を上げるか、コストを下げれば、所得は上昇する。基本法は規模を拡大してコストを下げる方法を選択した。価格を上げると貧しい消費者を苦しめるからである。

しかし、組合員を丸抱えしたいJA農協は、基本法の構造改革を選別政策だと非難して協力しなかった。JA農協の強力な政治運動を受けて、自民党政府は、政府買い入れ価格(米価)を大幅に引き上げた。食糧管理法は生産者保護の法律となった。

基本法による零細農業構造の改善には、農家戸数が減少していくだろうという見込みがあった。ところが、都市との格差是正のため、地方に工場が積極的に誘致された結果、農村にいながら工場に勤務できるようになった。米価引き上げはコストの高い零細な農家の米作継続を可能とした。機械化の進展で米作への投下労働時間が大幅に減少し、工場勤務者等の週末労働だけで米は作られるようになった。農村に零細な兼業農家が大量に滞留してしまい、主業農家の規模拡大は実現しなかった。1965年以降サラリーマン収入と農業所得を合わせた農家所得は、勤労者世帯を上回るようになったが、農工間の所得格差の是正は農業の構造改革ではなく、農家の兼業化(サラリーマン収入)によって実現した。

さらに、日本ではフランスのような厳格な土地利用規制(ゾーニング)がないため、農地が宅地や工業用地の価格と連動して上昇した。農地価格は農業の収益還元価格を大幅に上回るようになり、農地の売買による規模拡大も困難となった。農地法は、貸借(小作)権を強く保護したので、所有者は貸したら返してもらえないと思い、貸借による規模拡大も進まなかった。

農業基本法は、農林省からも顧みられなくなった。零細農業構造を改善して規模を拡大しようとすると、農家戸数を減少させなければならない。そうなると農業の政治力が低下して農業予算を獲得できなくなると考える役人が増えるようになった。