先週末、ニューヨークとワシントンへの駆け足出張を終え帰国した。予想通りとはいえ、日本の殺人的酷暑と参院選後の「負の余韻」には閉口する。特に、この政治の閉塞感、何とかならないものか。
帰国早々、「石破茂首相は戦後80年首相談話を出すべきか」「日本はパレスチナ国家を承認すべきか」等さまざまな質問を頂いた。「えっ、まだそんな議論をやってるんですか」と思わず聞き返してしまった。日本の「相変わらず」は天気と政局だけではなさそうだ。
今週は夏枯れなのか、海外の大ニュースは少ない。されば、この2つの問題について筆者の見立てを書こう。
まずは首相談話から。報道によれば、石破首相は「戦争がなぜ起きたのか検証し、抑止するための仕組みの方向性を示したい」と述べたそうだ。なるほど、でも、それなら本でも書かれたらどうか。戦争勃発の原因や抑止の仕組みを考えるのは内閣総理大臣の仕事ではない。
1995年の村山富市首相談話で日本は「国策を誤り、戦争への道」を歩み、「植民地支配と侵略」により「多大の損害と苦痛を与え」たことに「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明した。筆者の知る限り、戦後の国際社会で主権国家が自国の「植民地支配」につき公式に「謝罪」した例は日本以外にない。
2007年、フランス大統領は公式謝罪を求めるアルジェリアに対し、「植民地主義は極めて不当なものだ」、「あの132年間に多くの苦しみと不正義があったことは確かだが、(両国関係は)これが全てではない」、「事実の認識は支持するが、悔恨には賛成できない。そのような宗教的概念は国家間の関係になじまないからだ」と述べ、「謝罪」を丁重に拒否している。
筆者は「謝罪するな」と言っているのではない。日本がいかに誠実に国際問題の解決に努めたかを知ってほしいだけだ。国際問題としては、この村山談話に尽きている。国内の責任問題は別途国会で議論すればよいことだ。
もう一つ、気になったのがパレスチナ国家承認問題だ。野党側は「イスラエルの蛮行を止めるのに残された外交手段は国家承認しかない」と求め、国家承認しない方針の米国と同盟関係にある日本は「難しい立場にある」などと報じられた。でも、この種の議論、筆者には理解不能だ。
同盟関係をいうなら、英仏豪も全て米国の同盟国ではないか。では、先進7カ国(G7)が国家承認すればイスラエルの行動は止まるのかね。パレスチナ国家承認はパレスチナ側に譲歩を迫る切り札だが、今回の英仏の国家承認は「空撃ち」か「無駄弾」でしかない。
そもそも、国家承認とは何か。慣習国際法上の要件としては「国家の三要素」である領域・住民・実効的支配の三つが必要だと昔学んだ覚えがある。では「住民」とは誰なのか、国家の「領域」はどこなのか、パレスチナ人ですら特定できないだろう。最後に一体誰がどこを「実効支配」しているというのか。これらの要件なしに、日本政府はどうしてパレスチナ国家を承認できるのか…。
関係者をいじめるのが目的ではない。以前述べた通り、国際法は重要だが、発展途上にあり、いまだ完全な法体系ではない。これが現実である。
もし日本がパレスチナ国家を承認すれば、国家の三要素を欠く国家承認となるが、それは政治判断であって、法律判断ではない。それが可能なら、「自衛権行使の三要件」にも政治判断の余地があるということか。浅学菲才の筆者にはよく分からない。そろそろ法匪のような議論はやめ、将来の日本のための法律解釈を考えるときがきているようだ。