メディア掲載 外交・安全保障 2024.08.13
産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2024年8月8日付)に掲載
この原稿は8月6日午前、広島のホテルで書いている。市内では「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が平穏かつ円滑に行われた。高校生だった筆者が初めて広島平和記念公園の原爆ドーム前に立った時、稲妻に打たれたような衝撃を受けた。その感覚は長崎の平和公園でも変わらなかった。1945(昭和20)年に広島と長崎でかくも多くの一般市民が犠牲になった。筆者にとって、毎年8月に開かれる式典は若き日のあの衝撃を思い返す荘厳、神聖かつ厳粛な場である。それに今回泥を塗ったのが他ならぬ長崎市である。
広島市は6日の式典に例年通りイスラエル大使を招待したが、パレスチナは招待していない。当然だろう、パレスチナは国家ではないからだ。ところが、長崎市はイスラエル招待を最終的に、事実上撤回した。同市長は「不測の事態発生の懸念に変わりはない」「政治的判断ではない」「式典を平穏円滑に開催するための判断」「原則としてあらゆる国の代表に参加してほしいので大変残念」などと説明したが、筆者は我が耳を疑った。
長崎市は「リスク回避」というが、本日広島では何の混乱も生じていない。今朝もデモはあったが平穏かつ整然としていた。状況は長崎でも同じだろう。されば、長崎市のイスラエル招待撤回は政治的判断だと言わざるを得ない。なぜ原爆犠牲者を慰霊する式典を政治化するのか。不測の事態を起こすような輩が長崎市にいるのか。長崎市の異例の政治的判断は原爆犠牲者に対する冒涜だとすら思う。
次に驚くのは長崎市が在京パレスチナ代表を今年も招いたことだ。長崎市長の言論の自由は尊重するが、市長には日本政府の外交方針と異なる措置をとる理由がない。在京外交団の多くも長崎市の措置には首を傾げたと聞く。「あらゆる国」の中にパレスチナは未だ入っていないからだ。
筆者が更に残念に思うことは、欧米であれば、この種の措置は「反ユダヤ主義」と批判される恐れがあることだ。政治的理由でイスラエルを批判することは構わないが、非政治的な場でユダヤ系だけを政治的に差別することは「反ユダヤ主義」と誤解される行為である。長崎市は否定するだろうが、筆者は「あまりに鈍感」と言わざるを得ない。
最後に筆者が最も驚くのは日本の大手メディアの「鈍感さ」である。6日現在、長崎市の判断が「反ユダヤ主義」と誤解される恐れに言及した記事はない。筆者が「敏感過ぎる」のか、いや決してそうではないだろう。
2カ月前、筆者は本コラムで米国のユダヤ系社会に「異変」が起きているとして、日本ではあまり知られていない米国内の「反ユダヤ主義」の増加について書いた。復活しつつある「反ユダヤ主義」的風潮を決して過小評価すべきでない。日本人が親しくしている米国人の多くはユダヤ系だが、彼らは少数派に対する差別に敏感だ。原爆の恐ろしさに関する日本人の感覚を最も理解するのは、他ならぬ、ホロコーストの記憶を持つユダヤ系社会だからだ。
欧米の「反ユダヤ主義」復活は危険な兆候だが、日本でも無意識のうちに「反ユダヤ主義」が静かに広まりつつあるとすれば問題だ。今回イスラエルは沈黙を守っている。反論は結果的に原爆犠牲者への冒涜となり、荘厳であるべき式典の政治化を助長することを、彼らは長い被差別の歴史から学んでいるからだ。長崎市の政治的理由によるイスラエル大使招待撤回は誤りである。