この原稿はワシントンの定宿で書いている。1981年に留学して以来、当地で結婚し、大使館勤務も経験した。今回はレンタカーを借り、昔と変わらない街並みを抜け、昔住んだ家もちらっと眺めた。今年も数十年来の旧友たちと会えたのだが、実は彼らの一部に「異変」が起きているという。近年、彼らユダヤ系米国人を取り巻く環境が激変しつつあるというのだ。今回は日本であまり知られていない米国内の「反ユダヤ主義」の実態を取り上げよう。
米アトランティック誌の本年4月号に衝撃的記事が掲載された。「米国ユダヤ人の黄金時代は終わりつつある」と題する小論の結論はこうだ。
〇反ユダヤ主義は右派だけでなく左派でも増えている
〇ユダヤ系米国人の前例なき安全と繁栄の時代は終わる
〇彼らが望むリベラル秩序も破壊の危機に瀕している
これだけでは日本の読者には分かりにくいかもしれない。1830年代以降、主として欧州から米国にやって来た数百万人ものユダヤ系移民がさまざまな苦難を乗り越え、1960年代からようやく差別を克服していった歴史を知らなければ、現在復活しつつある「反ユダヤ主義」的風潮は決して理解できないと思うからだ。
19世紀、ユダヤ系移民は米国社会の中で有形無形の差別に苦しみ、特にアングロ・サクソン系など先住移民の子孫が支配する銀行、鉄道など主要産業や弁護士業から事実上排除されていた。ユダヤ系が小売り、ブローカー業などで成功できたのはそれら産業に反ユダヤの差別が少なかったからだ。
20世紀に入っても差別は続いた。ユダヤ系が同じく差別に苦しむ黒人解放運動を支援し、リベラル運動の旗手となったのは、自らを解放するための手段だったからでもあった。ポップミュージック界では60年代当時、ユダヤ系のボブ・ディラン氏やサイモン&ガーファンクルが活躍したが、そうした背景を正確に理解していた日本の音楽ファンはごく少数派だったと思う。
反ユダヤ主義からユダヤ系米国人を真の意味で解放したのは、61年に大統領に就任したアイルランド系でカトリック教徒のケネディだった。彼が登用し、後に「ベスト・アンド・ブライテスト」と呼ばれる政府高官たちの中には多くのユダヤ系学者が含まれ、ユダヤ系は初めて国家権力を行使する機会を得た。80年代からはユダヤ系の連邦議員が増え始め、過去に国務長官も務めたキッシンジャーが米国外交を取り仕切るなど、ユダヤ系米国人の「黄金時代」が到来した。筆者が彼らに出会ったのは丁度その頃である。
しかし、21世紀に入り風向きが変わってきた。2008年のリーマン・ショックでユダヤ人陰謀論が沸騰し、ユダヤ系の投資家、ジョージ・ソロス氏が批判された。こうした風潮はトランプ政権誕生で助長され、18年にはペンシルベニア州のユダヤ教会で銃乱射事件が起き、「全てのユダヤ人は死ね」と叫ぶ犯人が11人を殺害した。
先日再会した旧友たちが最も憂慮したのは、全米の大学に広がった「パレスチナ支援」デモに少数ながらユダヤ系の若者がアラブ系学生とともに参加したことだったという。時代は変わったものだ。
こうした欧米での「反ユダヤ主義」の高まりは極めて危険な兆候である。ユダヤ系が差別されれば、いずれ日本人を含むアジア系、ラティノ系、アフリカ系の少数派にも差別が向かうからだ。されば、日本人はもっと非難すべきなのだが、日本ではそうはならない。日本にとって米国大学の混乱は決して対岸の火事ではないのである。