昨年12月、筆者は中国が台湾軍事制圧を試みる可能性について「最も恐ろしいのは独裁者の誤謬(ごびゅう)だ」と書いた。されば、独裁者はいつ、如何(いか)なる理由で、戦略的判断を誤るのだろうか。
この問いに答える好著「アキレスの罠(わな)」が最近、米国で出版された。著者のS・コール氏は英エコノミスト誌編集者。フセイン・元イラク大統領に関する膨大な未公開史料に基づき、2003年にイラク戦争が起きる過程を詳述した本だ。
巷(ちまた)では、「イラクの核兵器保有に関する米情報機関の誤った分析により、米国はイラクに戦争を仕掛けた」が通説とされる。だが、コール氏の疑問は観点がちょっと違い、「核兵器を保有してなかったなら、なぜフセインは国連査察をかたくなに拒んだのか」である。同氏が描いたフセインの認識は次のとおりだ。
▽米国はイランと共謀し、イラクのフセイン体制を転覆しようとしている
▽米国とイスラエルは必ず核兵器でイラクを攻撃する
▽全知全能のCIA(米中央情報局)はイラクに核兵器がないことを既に知っていた
▽従って、米国の対イラク非難はイラク侵略のための口実に過ぎない…
要は、妄想癖あるフセインが、側近からの情報を信用せず、米国の意図を正確に把握できなかった、ということ。フセインに米側の懸念を直接伝えていれば、イラク戦争は回避できたかもしれない。
コール氏の指摘をふまえると、同様の教訓はウクライナ戦争にも当てはまる。21年の米軍のアフガニスタン撤退により、米外交の優先順位が中東からアジアに移ることを懸念した中東各国は外交的主導権争いを始める。これを「戦略的機会」と誤算したロシアのプーチン大統領はウクライナ侵攻に踏み切り、NATO(北大西洋条約機構)の再結束、ウクライナという民族国家の再生、東欧の対露警戒感増大、北欧全体のNATO化を招くなど、ロシアにとって戦略的誤謬を犯した。プーチン氏ほどのインテリでもこんな初歩的ミスを犯すのか。
これに対し、イランの戦略的判断はイラクやロシアほど稚拙ではない。昨年10月のハマスによるイスラエル奇襲攻撃は、イスラエルと一部アラブ諸国の関係正常化の流れを潰そうとする試みだった。当初、最高指導者ハメネイ師のイランは親イラン武装勢力を使って米国を牽制(けんせい)していたが、1月末、米兵が3人死亡するに至り、米国は親イラン勢力に対し厳しい報復攻撃を行った。報道によれば、それ以来、イランは親イラン勢力に自制を求め、対米軍攻撃はほとんど起きていない。直接イランを狙わないことで、これ以上の戦闘拡大をやめさせようとする米国の報復攻撃の意味を、イランは正確に理解したようだ。
過去2年間で西側はウクライナでロシア抑止に失敗し、ガザでイラン抑止にも失敗した。されば、インド太平洋は大丈夫か。結論から言えば、一見挑発的な北朝鮮も、その戦略判断は意外に堅実だ。確かに核兵器は開発するが、先制核攻撃に踏み切る可能性は低い。核攻撃を仕掛ければ、その時点で北朝鮮なる体制が崩壊することを金正恩氏は正確に理解している。その点で北朝鮮は、ロシアよりもイランに近いだろう。
では、中国共産党は大丈夫か。習近平体制の下で権力集中は進んでいるが、習近平氏にイラクのフセインほど強烈な自己愛や妄想癖があるとは思えない。やはり、中国の戦略的判断ミスを防ぐには、常に首脳レベルに正確な情報をインプットする必要がある。
昔、フセインは「自己愛は人間が賢くなる機会を奪うから危険」と述べたらしいが、米国大統領へ返り咲きを狙うトランプ氏はフセイン以上に自己愛が強烈だ。やはり最も危険な政治家は2期目のトランプ大統領かもしれない。