福島第一原発の処理水の海洋放出を受けて、中国が日本産水産物の輸入を停止した。
中国の輸入停止のWTO整合性
このような貿易制限行為を規律しているのは、WTO(世界貿易機関)のSPS協定(衛生植物検疫措置の適用に関する協定)である。この協定が作られた背景は、関税の削減などの貿易自由化が進む中で、国内の農水産業を保護したい国が、輸出国における農業生産に影響を与える病害虫の存在や輸入食品の危険性などを主張して輸入制限を行う例が増えたためである。もちろん自国民の生命・健康を守ることは各国の主権的権利である。しかし、これが偽装された貿易制限とならないよう、SPS協定は輸入制限を行う国に対して当該措置について「科学的根拠」“scientific evidence”を要求した。
具体的には、措置国に、特定の危害(ハザード)の摂取量と発病率の関係を科学的に明らかにする“リスクアセスメント”が求められる。発病率は、10万人に一人死亡するか100万人に一人死亡するかというリスクの水準としてとらえることもできる。そのリスクの水準を決めれば、リスクアセスメントによる摂取量と発病率の対応関係から、ハザードについて許容される摂取量が決定される。100万人に一人死亡するリスクしか認めないとすれば、10万人に一人死亡するというリスクの水準よりも、少ないハザード摂取量しか許容しないことになる。たくさんの食品からハザードを摂取する際には、食品ごとに許容される摂取量が割り振られる。これが個々の食品についての安全性の基準となる。
SPS協定は、安全性について国際基準がある場合には、各国の基準はその国際基準に「基づく」よう求めている。各国が同じ基準を採用すれば、基準がまちまちの場合よりも貿易は促進されるからである。食品についてそれを定めているのは、FAO とWHO合同のコーデックス(Codex)委員会である。ただし、「基づく」とは、「合致する」とは異なるので100%国際基準と同じでなくてもよいとするのがWTOの判例である。基づいていないことの挙証責任は申し立て国(日本が提訴する場合は日本)にある。
他方で、SPS協定は、リスクの水準(適正な保護の水準)を決定するのは各国の主権的権利であるとしている。国際基準を定める際のリスクの水準(例えば、10万人に一人死亡するリスク)よりも、ある国が高いリスクの水準(例えば、100万人に一人死亡するリスク)を設定すれば、コーデックスと同じリスクアセスメントを行ったとしても、その国はコーデックスよりも高い食品の安全性基準(より少ないハザード摂取量)を定めることができる。実際にも、国際基準よりも厳しい基準を設けているケースが少なくない。
福島第一原発の処理水はWHOの飲料水水質ガイドラインの基準の7分の1(1,500 Bq/L)に希釈されて放出されることから、日本は国際基準を順守しており、中国の輸入停止措置は妥当ではないと主張している人もいるが、これは正確ではない。あくまで中国の輸入停止の対象は水ではなく日本産水産物だからである。
トリチウム水は生物体内に取り込まれてもほとんどが放出されると言われている。今回中国がリスクアセスメンを行おうとすれば、魚介類の体内に取り込まれた海洋でのトリチウム水の一部が体内の有機物と結合して残存し、それを摂取した人の健康被害(被爆)がどれだけのものになるかを明らかにしなければならない。中国がリスクの水準を高く(例えば、1億人に一人死亡するリスク)設定すれば、ハザード(この場合はトリチウム)摂取量の水準を極めて低く設定することは可能である。しかし、トリチウムは自然界にも存在し、排出口で1,500 Bq/Lに希釈されて放出された処理水がさらに海洋で2千倍に希釈されると、ほとんど環境中にあるトリチウムと区別できなくなるとされる(鳥 養 祐 二・茨城大学教授)。それを摂取した日本産水産物、さらにはそれを摂取した人について、全くトリチウムというハザードやそれによる被害がないと評価されれば、中国の輸入停止の根拠がなくなる。
中国がこのハードルをクリアしても、福島周辺以外の日本の海域からの水産物全てを輸入禁止する根拠があるのか、日本より大量のトリチウムを排出している中国原発周辺の水産物の流通を禁止しないのはなぜか、という点を説明しなければならない。後者については、輸入品を国産品よりも不利に扱ってはならないというのが、WTOの基本原則だからである。中国の分が悪いのは事実である。
しかし、日本がWTOに提訴しても決着するまで数年もかかる。近年中国が経済的威圧として採った、オーストラリア産ワインや大麦の輸入制限、台湾産果物の輸入停止と異なり、日本産水産物が健康被害を与えることを理由にしていることから、中国も振り上げたこぶしをなかなか下せない。中国は日本と同時に多国間暫定上訴仲裁アレンジメント(MPIA)に参加しているので、紛争処理の上級委員会が機能を停止している現在でもパネル(紛争処理小委員会)で勝てば、履行を求めて仲裁手続きに進むことはできる。しかし、日本が勝っても中国は代償を払うことで履行を免れる可能性もある。
WTO以外の道を探ろう
一見回り道に見えるかもしれないが、中国の人たちに、国際社会は日本産水産物を危険視していないことを示し、中国政府が輸入停止を解除できるような環境を作ることが必要だ。9月にASEANやG20の会合で首相が安全性について訴え、かなりの国から評価されたのは大きな前進である。また、WTOの紛争処理手続きより法的な拘束力は弱いが、WTOのSPS委員会やRCEP(地域的な包括的経済連携)協定を利用して、中国や他のメンバー国へ働きかけることも有効だろう。WTOに訴えないまでも、負けるとメンツがつぶれるし、中国の国民にウソをついたと言われますよという説得をする手もあろう。
もう一つの手段がある。中国はCPTPPへの加入を申請している。これを認めるかどうかは、日本を含めた既加盟国次第である。日本が拒否すれば中国は加入できない。日本は、中国が貿易ルールを守らないと主張して、その加入申請を拒否できる。他にも中国のCPTPP加入には大きなハードルがあるので、日本産水産物の輸入停止を撤回すれば、中国のCPTPP加入の道が開かれるというものではない。しかし、中国に対して、わざわざWTOルールに違反して、自ら加入へのハードルをさらに高めるようなことはすべきではないという説得はできるのではないだろうか。
さらに、中国の措置が経済的威圧としての効果を持たなくする方法を検討すべきである。中国が経済的威圧を行うのは、相手国が中国市場に依存していると認識しているからである。我が国が他の市場を開拓することに成功すれば、中国の経済的威圧は効果がなくなる。逆に、日本産水産物が入手できなくなる中国の消費者は政府への不満を持つようになるかもしれない。
WTO提訴というガチンコ勝負に持ち込めば、中国も引っ込みがつかなくなる。中国が政策変更をしやすくなるような環境整備を行えば、いずれ中国政府は、ほとぼりが冷めたころを狙って、めだたない形で輸入停止を解除するのではないだろうか。直接的なアプローチよりも間接的なアプローチの方が効果的なこともある。日本には「急がば回れ」ということわざもある。
(参考文献)
山下一仁「食の安全と貿易─WTO・SPS協定の法と経済分析」日本評論社2008年