メディア掲載  グローバルエコノミー  2023.06.07

今こそ必要な国民生活のための政策転換

政策研究フォーラム2023年全国会議 第3部会 歴史の転換点に立つ国際社会と日本

月刊誌「改革者」(2023年5月号)掲載

農業・ゲノム

日本社会はデフレ下において変革を厭い、問題を先送りにし続けてきたが、コロナ禍に引き続いたウクライナ戦争はその限界を明らかにした。旧態依然の政策を転換することこそ、我が国が国際的地位を維持する道である。


司会者

清滝 仁志/駒澤大学教授

報告者

川崎 一泰/中央大学教授

梅崎 修/法政大学教授

山下 一仁/キヤノングローバル戦略研究所研究主幹


清滝 私は政治思想史という昔からの歴史を教えており、ウクライナ戦争の直接の影響と言うよりも、もう少し長いタームで考えてみたいと思っています。

日本の政治の特徴ですが、何でも先送りするというのが常套手段であり、問題があるのに対処せずに、部分的修正で済ませるところがあります。従来の思考様式を続け、一度決めたことが何となくダラダラ続いていくわけです。

ウクライナ戦争によってこの先送りがもう限界に来ていることが明らかになったのではないでしょうか。今さえよければいいだろうという惰性的思考が許されなくなっているのではないでしょうか。この戦争を政策転換のための機会として考えるべきです。

エネルギーは比較的分かりやすいところがあります。原発再稼働先送りの限界が認識されてきました。雇用もまたデフレが当たり前であったのが、物価高とか賃上げとか新たな事態が出てきました。

農業というテーマを出したのは、政策の限界がとうに来ているのに、かえって食料危機を煽って、従来の農業保護を続ける材料にしている節があるからです。そこで農政に対し挑戦的発信をされている山下先生に話をしていただき、その後いろいろな分野について論じていきます。

山下 最初にお断りをしておきますが、皆さん方が聞いたり読んだりしている農業の話、食料の話、テレビで専門家の人たちが出てしゃべっている内容はほとんど嘘です。ということを前置きして、白地の頭で話を聞いていただけたらと思います。

ほとんどの農業研究者は、農家はかわいそうだという話を最初にしますし、役人もそうです。だけど、実はもう農家は全く貧しくないんです。1965年以降、農家所得はサラリーマン所得を上回って推移しています。酪農でも確かに去年あたり穀物価格が上昇して、経営は厳しくなりましたが、その前の5年間ぐらい平均的所得は1000万円を超えています。大規模酪農家は5000万円です。それがずっと続いて、去年だけ赤字なのです。なぜ、そういう人たちに補償をしなければならないのかということです。

でも弱者を装うと予算が取りやすくなります。これが農業界の実態であります。大きな農業者でも何か困るとすぐ政府に泣きつく、あるいは農政が悪いからこうなったのだと言う人がたくさんいます。

農家が豊かになったとなると農水省は救済する対象がなくなります。それで食料安全保障とか多面的機能という理屈を見つけ出しました。多面的機能というのは、水田だと水資源の涵養とか、洪水の防止とか、経済学で言うと外部経済効果を果たしており、保護するに値すると。水田として利用するから多面的機能も発揮できるし、食料安全保障に寄与できるのです。ところが実際には減反補助金を出して水田面積をどんどん減らしました。多面的機能も食料安全保障も発揮できません。

減反政策はなぜやっているのか。高米価を維持するためです。今回の物価の高騰において(輸入)小麦価格は据え置きました。ところが米は生産量、つまり供給量を減らして価格を高くする政策をおこなっており、今回価格を上げました。

世界の米生産は拡大していますが、主要国の中で日本が唯一減産し、それに補助金を出している。食料安全保障を主張している農水省・農協・与野党の農林族議員が米いじめを推進しているわけです。

こういう考え方は、伝統的な農水官僚は決して採りませんでした。柳田國男(民俗学者として有名)は米価を上げて農家を保護するのは下の下の策だと。つまり労働者が困るだろうと。それでなくて、コストを下げ、農家の所得を上げ、安価な米を労働者に供給すればよい。これが農政官僚の本流です。

食料自給率が下がって大変だとよく言います。でもこの数字は国内生産を国内消費で割ったものです。終戦直後の食料自給率は、国内消費イコール国内生産で100%なんです。でも4割を切っていると言うと、国内生産をもっと増やさないと駄目だと。予算をもっと増やさなければならないと思い込んでくれます。ところが実際には減反をして、米の自給率を下げているわけです。

食料自給率は1960年に79%ありましたが、今は38%しかありません。でも構成の内訳はほとんど一緒です。米が半分以上を占めています。従って米の生産を拡大して、輸出ができるようにすると、米の食料自給率は243%まで拡大します。そうするとこの計算式に入れていくと、食料自給率は63%に拡大します。でもずっとこういう方法は農水省は採らず、自給率をどんどん下げてきたわけですね。

減反には3500億円を補助金で払っています。減反廃止で米価が下がります。補助金もいらなくなります。国民は納税者としても消費者としても利益を得るわけです。農業経済学者はたくさんいても、こういう意見を言う者は誰もいません。

台湾有事で、アメリカが中国とことを構える状況になると、日本のシーレーンは完璧に途絶します。終戦直後の食料難の時に政府は農家から米を買い上げ、123勺を配給しました。今なら大飯食らいです。でも米しかないとなると、そういうことになります。米は極めて良質なタンパク質を含んでいる完全栄養食品です。23勺を供給するためには、1600万トン必要なんです。でも今、減反で670万トンを切るような水準になっています。

減反を廃止すると1700万トン生産できます。普段は国内で700万トン消費して、1000万トンを輸出すればいいわけです。シーレーンが破壊され、小麦も牛肉も豚肉も入ってこないときには、輸出分を国内で食べればいいわけです。全くお金の掛からない備蓄です。日本の1番得意な米を輸出すれば、それが有事の食料危機の時の最高の、しかも全く金の掛からない備蓄になるわけです。

米価を上げると、規模の小さくコストの高い兼業農家も生き残ります。その農家は、兼業収入、つまりサラリーマン収入をJAバンクの口座に預けてくれます。その結果、みずほ銀行と匹敵するような預金を持ったメガバンクになったわけです。100兆円ぐらいの預金額のほぼ7割ぐらいはウォールストリートにおいて有価証券で運用して、莫大な利益を得ています。銀行は他の業務はできません。ところが農協だけは、生保もできるし、損保もできるし、米の販売もできるし、肥料・農薬・農業機械も売れるという万能の存在です。兼業農家を滞留させたこととうまく噛み合ったわけです。

所得というのは売上高からコストを引いたものです。所得を上げようとすると、価格生産量を乗じた売上高を上げるか、コストを下げればいいわけですね。柳田國男は、価格を上げるというのは絶対駄目だと。所得を上げるのならば、コストを下げればいいじゃないかと。

規模を拡大すると、1haあたりのコストが下がります。そして所得が上がります。だから、30ha以上層は1600万円近くの所得を上げています。

それと1haあたりの収量を上げればコストが下がります。そのための品種改良をやればいいわけです。ところが減反のおかげでカリフォルニアの方が日本より6割も単収(面積あたりの収量)が高いのです。

日本の米の生産性は横ばいで、1960年には半分しかなかった中国にも抜かれている状況です。では何をすればいいのか。減反をやめます。米価が下がります。すると兼業農家が農地を出してきます。主要農家という本当の専業農家に対して直接支払という所得補償をやれば、地代負担能力が上がるので、農地は主要農家の方に流れていき、主要農家の規模が拡大します。コストが下がります。そうすると兼業農家=地主に対する地代も上がっていくわけです。集落みんながハッピーになるわけです。でもこういう方法は絶対に認められません。なぜかというと、兼業農家が多い方がいいという既得権益グループがあるからです。しかも農家戸数が多いということは、予算を獲得するための政治力として必要だという役所がいるわけです。

清滝 農業の議論は合理的に考えるということがあまりに不足していると感じます。農水省のホームページを見ても、農業は恵みをもたらす、お金で買うことができないみたいな書き方をしていますが、それとは違った合理的な思考というのがもっと必要だと思います。

川崎 今日はエネルギーと安全保障のお話をさせていただきます。エネルギー自給率は10%をちょっと超えるということになっています。原子力を除くと56%という感じになるかと。そういった安全保障の議論はあまり展開されていないということが最初の問題設定です。

日本経済は何を目指しているかというと、デフレ脱却です。物価上昇そのものを日銀や政府が目標としているわけではなく、そこから生じる売上の上昇、企業業績の回復、所得の上昇、そして消費を生み出すという循環をつくることです。しかしエネルギー価格が上昇しても、九割は海外の所得になってしまい、デフレ脱却に結びつきません。

現在、カーボンニュートラルということが提唱されています。それは、CO2を出してはいけないという話ではなく、出したものと吸収するものをプラスマイナスゼロにすることです。にもかかわらず、脱炭素ということでCO2を出してはいけないという誤った方向にメッセージが伝わってきているのが今の日本の大きな問題と認識しております。

化石燃料の使用を極力減らすということが、本当にそれでいいのでしょうか。今、日本の電気代が上がっていますが、IEAが毎年発表しているデータによると日本よりも高い国が二つあります。ドイツとイタリアです。両国は再エネシフトを宣言し、脱原発を宣言しています。電気料金の引き上げを認め、その代わりに再エネシフトをしているのです。

電気料金と電力構成については高い相関があり、再エネの依存度を高めれば料金は上がります。一方原子力を使うと安くなります。原子力の依存度は低いけれども、料金が安い国では石炭を使っています。脱原発と言いつつ、電気料金を下げろというのは、かなり無理があり、同時にカーボンニュートラルを実現するというのは、無理筋です。

日本では夏と冬の節電要請が風物詩化しつつあります。原因は電力自由化による供給力不足です。かつて調整用にあった火力発電施設の費用を電気料金に上乗せしていました。自由化により、上乗せをすると競争力がなくなるので、コスト削減をしてしまったわけです。つまり稼働率が低下した火力を廃炉し、供給力が下がっているのです。

今、流れている電気は、1kWhあたり20円から30円ぐらいで売られています。市場で調達すると、平均価格で言うと11円、12円なのですが、8月、9月と、12月、1月の期間だけ突出しピーク時は250円とかになっています。250円で調達したのを20円、30円で売らなければいけないわけですから、当然赤字になります。このピークの4か月間だけ稼働できるちょうどいい電源は今のところありません。

さらに2022年度に資源エネルギー庁が価格の上限を決めました。その結果、平均価格が22円から23円という形になっています。上限価格を設定され、ますます採算ベースに乗らなくなっています。自由化の状況では廃炉をおこなうことになります。これで本当に安定供給は大丈夫なのでしょうか。

新産業育成において、電気料金の問題は深刻であり、IoTとかDXと呼ばれる分野では特にそうです。サーバーや通信基地は大量の電気を使います。また自動運転や何かのインフラとして使われるいわゆるセンサーの類いもたくさんの電気を使います。高くて不安定な電気供給の下で新しい産業を興すのは困難です。

梅崎 私は、労働経済の分野で人事・労務管理とか労使関係の研究をしています。日本経済の長期停滞状況に対して、雇用システム論、たとえば、日本的雇用慣行というのが何度も議論されてきています。しかし景気の問題にちょっと紐付けされすぎているという問題があります。つまり、日本的雇用システムは、景気がいい時には高く評価され、景気が悪い時には低く評価される傾向があります。日本的雇用システムが景気にどのくらい影響するかは、わからない部分があると思います。それは新規産業育成とか、ベンチャー支援というような産業政策の問題なのかもしれません。他の政策がうまくいっていないから景気が悪いのに、雇用システムが原因というふうに語られすぎてしまうということがあります。この点については、丁寧に議論していかなければいけません。

時間軸で流れを追っていきますと、日本の雇用システムが何らかの問題を抱えているということは、その通りです。戦後バブル経済までの日本的雇用の評価がどういう変遷をたどったかをみていきます。最初は「日本が学べ」から「日本に学べ」という変化です。非常に遅れた雇用慣行であったというのが、50年代ぐらいまでの大枠の評価であったと。これを近代的な経営に変えなければいけないというような言説が多かったのです。ところが、7080年代に入ると、日本の雇用システムが非常に高く評価されるようになりました。

こうした評価は、日本人が言っているような和の精神があるとか、国民気質としてチームワークがうまいという議論とは異なっています。文化的な要因であれば、戦前の日本も強いだろうということになってしまいます。戦後に構築された日本的雇用システムが強さの源泉であると極めて経済合理的に説明されるようになりました。

現在でも、トヨタの工場を他の外国系の自動車産業と比較すれば、効率性や工程のコスト削減において優れており、フレキシブルな、非常に柔軟性のある雇用管理、職場管理が注目されています。商品サービス市場は常に変動し、不確実で多様なものであり、大量生産とは言えど変動しているものに対し、フレキシブルに反応することが重要になります。そのためにある種の能力観が必要になってきます。これを知的熟練と言っているわけです。

この知的熟練とは、今政府で言っている話と全く真逆です。最初に固定的なジョブ(職務)があり、そこに人がいるというのと違います。何か変動があった時に誰が手を出して仕事をするかという話になっています。事態に対応できる者を評価し、その能力を尊敬するという仕組みが必要なのです。学者は知的熟練と言っていますが、企業の世界で言われていたのは、おそらく職能資格制度であったと思います。

楠田丘先生(コンサルタント)のつくられた職能資格制度は、「人は育成したら伸びる、その能力が手に入るように、自分の与えられた課題を超えていきましょう」というようなメッセージがありました。80年代から90年代にかけて日本の能力主義なり評価システムというのは、何か岩盤のように非常にがっちりしたものがありました。

90年代後半になってくると、日本の能力主義が機能しなくなってきているのではないかと言われるようになりました。そこで成果主義の議論が出てきました。現在、ジョブ型雇用とか、雇用システムを変えるべきとの議論において、あの時の成果主義と何が違うのかということを答えられる人はいないと思います。言葉を替えているけれども、基本的には同じことをやっているのです。

2000年代に入り、成果主義に対して日本企業がある種の挫折を味わってしまいました。うまく機能しないが、職能資格制度には戻れない。90年代後半から、長い現在を我々は生きているのです。課題は分かったのだけど、何か次の制度が構築され、これが正解でしたということになっていません。ずっと同じ状態で悩みが続いているという30年です。

岸田総理の所信表明演説にある「日本に合った職務給」とは何なんだろうと思います。アメリカのホワイトカラーというのは、90年代以降ずっと脱ジョブ的です。ジョブの破壊によって、競争力をアップしてきています。首相の議論はジョブに近付こうとするということなんです。

雇用政策論議の混乱の中で、必要なのは国民的な能力論を考えていくことです。日本の職能資格制度、知的熟練論の最大の問題は、8割、9割が10年かけて身に付けられるというロジックで構成されていることです。90年代前半の頃に出てきたのは、日本は遅い昇進慣行であり、選抜を遅らせることによって、全員が身に付ける能力に対して、10年間頑張るという話です。それはモチベーション管理としても有効ということでした。

能力論には育成と選抜と二つあります。育成はみんなが行けるよって言いたい。選抜はどんなに頑張ってもみんなは無理ですという結構厳しい言い方です。皆が育成できると言ってしまうと、選抜がとことん遅れてしまい、抜擢も適材適所も失われてしまうのではないでしょうか。

現在、ジョブ型と言われているのは、本当に雇用流動化社会をつくりたいと思っているわけではなく、今座っている人に立ってくださいというために、あなたそのジョブしていませんよねと。でも立たせるだけでは選抜は成立しません。この人は優れているのだから、ぜひ座らせたいというロジックを作らないといけません。日本の企業社会の中で、こういう能力が国民的に求められているんですよと。全員が身に付かない厳しいものかもしれないけれど、目指してもいいのではないでしょうか。

新しい熟練論というのは、皆が身に付けられるのではなくて、30%ぐらいしか可能でないのですが、それが何かというのが社会で合意されるべきであると。これは職場の労使協議制の中でも、人事評価の制度の中でも可能です。

さらに日本の雇用政策の議論はリスキリングや他のキャリア支援もそうですが、ほとんどがOFFJT、つまり職場外の研修で身に付くと。この前、岸田総理の発言が炎上していましたが、リスキリングにかかるコストを軽く考えているのではないかと。プラスOJTの仕組みを作らなければいけない。この機会が圧倒的に少ないというのが日本の現在の国民的問題です。

じゃあどうやってそれを作っていくのか。企業内のOJTのシステムを作っていくのか。それは国なのか。そもそもシリコンバレーのような、エンジニアが集まっているコミュニティなのか。ある種の産業的なコミュニティの中でOJTで成長して能力を身に付けるというメッセージをつくる必要性があるのではないでしょうか。

質疑応答

清滝 質疑応答に入ります。梅崎先生ですが、30%が身に付けるべき熟練とはどういうものでしょうか。そして、さらなる専門化か、幅広い技術か、どちらが新しい熟練の形になると思いますか。

梅崎 AI人材だとか、データアナリストだとか、理系大学院で勉強するスペシャルなすごい専門性がある人材が大多数になることはないと思っています。

文系で大学を卒業して、会社に入った時に、ある程度こういう能力が社会人として、もしくは職業人として身に付けるべきものなんだよというものは、専門性とは別に、何か我々がイメージできなければいけないと思っています。

清滝 大学の文系の場合、どういう技術が身に付くのかよく分からないところがあります。日本の学校システムと、先生がおっしゃったこととの関連はいかがでしょうか。

梅崎 何か大学の中で、文系で言えばしっかり本を読むとかですね。文学部で源氏物語をめちゃくちゃ読んだといったことで、抽象的な言葉と感覚をつないで、概念化したり、イメージできたりする。抽象的なものから具体的なものを想像できたり、具体的なものを見た時に、抽象化できる力があると考えます。そういうジェネラルなスキルを学ぶ場であるというのが、大学の文系に関しては当てはまるのかと。うまく人と付き合ったり、チームワークをつくっていき、いいリーダーになっていく基礎力の構築が、普通の文系の大学に任せられていると考えています。

清滝 山下先生への質問ですが、日本の酪農家の場合、経営方法が諸外国と違っていることで飼料価格の上下に左右されているのではないでしょうか。

山下 日本の酪農は二つのタイプがあります。と言うか、エサの与え方ですね。一つは酪農と聞いてイメージするのは、草を食べている牛ですよね。ところがこういった牛は肉牛は別にして、乳牛のうち2割もいないんです。ほとんどは草じゃなくて穀物を食べています。アメリカ産のトウモロコシを配合飼料メーカーが加工して農家に売っています。都府県の酪農はほとんど穀物肥育です。

北海道の生乳生産は、1960年ぐらいから6割も拡大しました。都府県の生乳生産は逆に4割ぐらい減少しています。最初のうちは北海道も牧草地を拡大することによって牛の頭数を増やしました。ところが、90年ぐらいからですね、草よりも栄養素の高い穀物を与えた方が、乳量がたくさん出るんですね。そうした方が有利だと思って、北海道も草を食べさせるのではなくて、穀物を食べさせる比率が高まってきたんです。草を食べさせている酪農家なら、穀物価格が上がったとしても離農するわけがないんです。ところが、北海道の酪農も穀物を食べさせる比率が高くなっているものですから、穀物価格が高騰するとエサの価格が高騰し、コストが上昇して経営は悪くなり、離農する。でもこれは邪道なんです。そもそも牛の生理からして、牛は反芻動物ですから、草を食べてきた動物ですよね。これに穀物を与えるというのは、病気を増やすことにもなる。だからアニマルウェルフェアにもあまり良くないんですね。

日本の畜産はアメリカから一方的に穀物を買うだけで、それで牛とか豚とか鶏を飼っているわけですね。その糞尿は日本の国土にずっと堆積しているのです。穀物生産に全然使われていないんです。つまり窒素分を日本の国土に滞留させているだけなのです。今までは問題になりませんでしたが、ヨーロッパでは地下水汚染で大変な問題になっているんです。

日本のシーレーンが破壊されると、穀物輸入が途絶されます。そうすると畜産は壊滅します。だから、日本の畜産は全く食料安全保障に貢献しないんです。さらに環境に負荷をものすごく与えているわけです。そもそも経済学の立場から言うと、今のタイプの酪農は振興すべきではなかったのです。

日本でもちゃんとした草を食べさせるような酪農家はわずかながらいます。山間を利用して牛を放牧することによって乳を生産している。だから本来はそういう草を食べる、本当の酪農を育てることを農水省はやるべきでした。実はJA農協は、アメリカのニューオリンズに巨大なエレベーター、穀物サイロを持っています。中西部から、ミシシッピー川経由でそこのサイロに滞留します。そこから大量のトウモロコシを日本に輸送しているわけです。アメリカとしてはものすごく良かったわけです。

乳製品競争力があるのは、オーストラリアとニュージーランドです。ところが高い乳製品の関税で、日本の酪農を存続させ、バターと脱脂粉乳をつくらせる。日本に酪農があることによって、アメリカは飼料穀物を日本に輸出することができます。だから日本で乳製品の関税を下げると、オーストラリアとニュージーランドは得していますが、アメリカは損をします。アメリカは牛肉の関税を下げろと要求しても、乳製品の関税を下げろとは要求しないんです。TPPでもそうなんです。だから酪農はセーフになったわけです。この世界の穀物の流れのいびつな構造と、日本の畜産のいびつな構造が今の酪農危機を生み出したと言えるのだと思います。

清滝 配布資料にエサ米という言葉が出てきますが。これについてご説明いただけませんか。

山下 減反政策では米の代わりに麦や大豆をつくらせたのですが、兼業農家には栽培が難しく、補助金のために種は播いても収穫できない「捨て作り」をおこなっていました。自給率は上がりません。それでエサ用の米を主食用の米の転作作物だとして補助金を出すようになったのです。世界一高い米価の国で膨大な補助金をつけてエサにしています。このような国は他にありません。

清滝 川崎先生のお話で電源構成に言及されていましたが、望ましい電源構成というのはどういうものなのでしょうか。

川崎 いわゆるベースロードと言われる常にどの時間帯でも使われるものについては、おそらく原子力が最も望ましいと考えております。そこからプラスアルファ、時間帯、あるいは季節に応じて掛かる部分については、本当に望ましいのは、やはり火力です。CO2を出してしまうところがあるので、化石燃料に水素やアンモニアのようなものを混ぜて燃やすことによって、国際ルールでそれはCO2の排出を減らしたと認定してもらえます。

再エネについても、地域に応じ北海道で冬場の暖房とか季節に応じて適切に使えるものを使っていくというようなベストミックスが、望ましいと思っております。

清滝 火力についてもかなり技術が上がっていると言われています。従来とは違ってかなりCO2排出が減っているということもありますが、この辺はいかがですか。

川崎 石炭がすごく悪者扱いされているのですが、CO2を減らすという意味においては、古いボロボロのものを使うよりは、新しいものに入れ換えた方がCO2はトータルで減ります。途上国ですと、経済発展の初期の段階で電力が必要になり、そこではいきなり再エネというわけにはいきません。老朽化した施設を新しい効率のいいものに切り替えていくことも、一つの選択肢としてあります。地球規模でのカーボンニュートラルとして、日本が技術援助なり輸出なりというところで貢献をしていくのが望ましいのだと考えております。

清滝 再生可能エネルギーは将来的にどれぐらい見込みがあるのでしょうか。

川崎 人間の都合に応じて使えるようには、残念ながら今のところなっていないというのが1番のネックです。常に安定的に発電できるならば全く問題はないのですが、風任せとか、天候任せというのはちょっと厳しいというのが実情です。

もちろん技術開発というのが進めば可能性としてはあり得るのですが、経済成長と一緒で、研究開発投資がずっと横ばいです。中国とアメリカがどんどん増やしているのに対して、日本は研究開発投資はやはり横ばいのままずっと推移していますので、そういう意味で技術頼みというのも国内では今のところちょっと厳しいのではないかなと考えております。

清滝 梅崎先生はどういうことをリスキリングと考えますか。

梅崎 今まで身に付けた熟練なり技能を、環境に合わせて新しいスキル、もしくは新しい能力というものにある程度置き換えていかないと、雇われる力を失ってしまうということです。主要産業が大きく変われば、自分の中の技能を新しいものに変えていくとか、もしくはリカバリーするとか、再編成していくことが重要だと思います。

問題はそれをどうやってやるの?ということです。仕事をしながらスキルを身に付けて、要所で座学を入れていくというのが職業能力を身に付けるポイントだと思います。自分のキャリアの戦略がOJT1本、研修1本になってしまうと、おそらく目的を達することができないのです。企業がこういう経験をしなさいと、職場に見合った能力を身に付けることができる経験は、機会配分なので平等ではないんですね、イス取りゲームと同じで。

企業内だけに絞っていると、経験・機会が少なくなって、より差が広がってしまいます。企業外にある種経験をする場をつくることが政策的には重要です。

各人の経験を語り合ったり、ワークショップとかをやれば、企業を超えた経験の学び合いができるかもしれない。その設計がすごく大事になってきます。

山下 私の属する研究所においてエネルギー自給率向上の話が話題になった時にある専門家が自給率アップなんてできないと話していました。

川崎 自給率を上げる手段は、原子力について、リサイクルをして何度も使うというのが技術的には現状可能性としてはかなり高いです。それを阻害している要因が、ゼロリスクという考えです。それこそ今日のテーマである政策転換です。リスクとどう向き合うかということが重要です。また再エネを上手に使うということぐらいしか今のところ手段はないのかもしれませんが、そこは技術開発を進めていかないといけません。

221日収録、文責編集部)