メディア掲載  グローバルエコノミー  2023.04.18

基本法見直しのあるべき原則

『週刊農林』第2506号(2月25日)掲載

農業・ゲノム

農林水産大臣は国民各層の意見を聴くために、食料・農業・農村政策審議会の部会で1年かけて検討するとしているが、零細農維持という見直しの内容は、既に決まっているはずだ。審議会はこれを追認するだけだ。ここでは、JA農協を中心とした農政トライアングルの利益を離れて、国民を餓死させないための基本原則を考えてみたい。

農政は基本法違反

これまでの農政は、現基本法が規定している“食料の合理的な価格による安定供給”(食料安全保障)や“農業の多面的機能の発揮”を損なってきた。

多面的機能や食料安全保障は、農業生産に伴う外部経済効果である。水田を水田として利用するからこそ、水資源の涵養や洪水防止などの多面的機能を発揮し、水田を維持して食料安全保障を確保できる。にもかかわらず、水田を水田として利用しないことに補助金を与える米の生産調整(減反)政策は、水資源の涵養や洪水防止という多面的機能を損ない、水田をかい廃して食料安全保障を害してきた。1970年の減反開始時には350万haあった水田は、今では240万haに減少し、その4割に当たる100万haが減反されている。減反開始時から比べるとその6割に相当する200万haが水田として活用されなくなった。半世紀以上も、基本法に掲げた目的を農政自体が損なっている。

減反補助金を負担する納税者、高米価を強いられる貧しい消費者、取扱量が減少して廃業した中小の米卸売業者、零細農家が滞留して規模拡大できなかった主業農家、なにより輸入途絶時に十分な食料を供給されない国民、全てが農政の犠牲者だ。農政は農政トライアングルという特定の利益集団のために運営されてきた。農林水産省が国民や消費者のことを第一に考えて政策を立案したことはない。BSE発生の際、農林水産大臣が「消費者に軸足を置いた農政」と言いだしたが、元に戻るのは驚くほど速かった。農政は「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする日本国憲法第15条第2項に違反している。問題なのは、基本法ではなく、基本法に反している農政なのである。

食料安全保障について基本法第2条第4項は次のように規定している。

「国民が最低限度必要とする食料は、凶作、輸入の途絶等の不測の要因により国内における需給が相当の期間著しくひっ迫し、又はひっ迫するおそれがある場合においても、国民生活の安定及び国民経済の円滑な運営に著しい支障を生じないよう、供給の確保が図られなければならない。」

現基本法は食料危機を想定しているのである。輸入が途絶したときに、肥料原料も石油も輸入できないことは、当然想定していたはずだ。では、輸入途絶という危機の時に、どれだけの食料が必要なのか?

小麦も牛肉もチーズも輸入できない。輸入穀物に依存する畜産はほぼ壊滅する。生き延びるために、最低限のカロリーを摂取できる食生活、つまり米とイモ主体の終戦後の食生活に戻るしかない。

当時の米の一人一日当たりの配給は23勺だった。現在の12550万人にこれを配給するためには、玄米で1600万トンの供給が必要となる。これが「国民が最低限度必要とする食料」である。しかし、実際の農政は、この規定と真逆の政策を実施してきた。

終戦の食料難を克服するために、農家は米の増産に努め、1967年に1,445万トンの生産を実現した。ところが、それ以降は、減反でどんどん米生産を減少させてきた。2022年産米の生産は670万トン、1967年の半分以下である。「国産国消」を喧伝しているJA農協がやってきたことは、国産の“米殺し”だ。もし今、輸入途絶という危機が起きると、エサ米や政府備蓄の米を含めて必要量の半分の800万トン程度の米しか食べられない。半分の国民が餓死する。

農政トライアングルは、高い米価が米生産を維持するために必要だとして米生産を減少させている。言っていることは支離滅裂だ。1960年から比べて、世界の米生産は3.5倍に増加した。日本は4割の減少である。しかも、補助金を出してまで主食の米の生産を減少させる国が、どこにあるのか?戦前農林省の減反案を潰したのは陸軍省だった。減反は安全保障の対極にある政策だ。

国民のための農政の基本原則

食料安全保障や多面的機能という利益を確保するために最も重要な原則は、国民・消費者に食料を安価で安定的に供給することを原点・基本とし、ここから発想することである。農家・農業者の利益など二次的なものに過ぎない。

どれだけ費用がかかっても国産の戦闘機を買うべきだとする人はいない。一定の予算で米国製を10機、国産を1機、買えるなら、米国製を買うのが当然だ。米国企業と同じコストで生産できない国内企業が問題なのである。

食料も同じだ。仮に、国民が生存するために2000万トンの食料が最低限必要であり、かつ食料に割ける国民の金額(予算)1兆円で供給できるのは、国産食料は500万トン、輸入食料は2500万トンなら、輸入食料を購入するしかない。コストの高い国産にこだわると、国民は餓死してしまうからだ

それでは国内農業が維持できないと主張するかもしれないが、それは国内農業が生産性向上で対応すべき問題である。国民・消費者のために供給責任を果たせないような農業は、保護に値しない。これが「国の本なるが故に農業を貴しとする、国の本たらざる農業は一顧の価値もない」(石黒忠篤)とする真の農本主義である。国民に多くの負担を強いる非効率な農家を含めて担い手だとするのは、亡国の農政だ。

農家・農村から貧困は消えている。農家の所得向上は農政の目的ではない。農政が弱者ではない農家を弱者として特別に扱ってきたために、農家に政府への依存心を高めさせ、かれらの自立・自助の心を損なってきた。残念だが、規模の大きい主業農家にも、特に高齢者にその傾向が見られる。

加えるべき原則

20年以上も前に作られた基本法を見直すとすれば、気候変動など環境問題への対応である。

日本人は、農業は環境にやさしいと思い込んでいるが、大きな誤りだ。

日本の面積当たり農薬使用量は米国の8倍である。食の安全性の観点から、残留農薬についての規制はある。しかし、農薬や化学肥料が環境に悪影響を与えていることに対して、これまでの農政は関心を持たなかった。

農業は温暖化ガスの2割を排出している。そのうち水田や牛のゲップで発生するメタンはCO₂の25倍の温室効果を持つので、その削減効果は極めて大きい。窒素肥料からは、CO₂の300倍もの温室効果を持つ亜酸化窒素が発生する。米国では、農地に肥料として投入される窒素分を農産物の収穫でどれだけ取り除くことができるかという窒素バランスが、農家の間で真剣に取り組まれている。

米国やヨーロッパでは窒素による地下水汚染が大きな問題となっているが、地下水中の硝酸態窒素濃度の上昇は水田では小さい。しかし、我が国における窒素肥料投入は、面積あたり世界平均の2倍以上である。さらに40年以上にわたる減反は、水田の窒素分解機能を大きく減じてきた。窒素肥料投入と減反は、両方あいまって将来健康被害をもたらす可能性がある。窒素肥料の削減は環境対策だけでなく輸入依存度を下げる安全保障対策としても重要だ。

水田で米と麦の二毛作を行えば、光合成による酸素の生産量は熱帯雨林のそれに迫る。しかし、サラリーマン農家が増え、田植えがゴールデンウィークの時期に移行したため、6月の麦秋は消えた。

農業の中でも畜産は、環境に特に悪い影響を与える。エサを輸入している畜産は、糞尿を穀物栽培に還元することなく、国土に大量の窒素分を蓄積させる。日本で一般的な穀物肥育の牛肉は牧草肥育に比べ心筋梗塞や脳梗塞を引き起こすオメガ6を多く含む。世界で検討されているのは畜産の縮小だ。マイナスの外部経済効果を持つ畜産を、高い関税や補助金で保護することは、誤りだ。

農林水産省の「みどりの食料システム戦略」は、技術や政策項目などを羅列しているだけである。目標達成のための具体的な道筋は全く書かれていない。「XXを目指す」というだけで、目標に全く近づかなくても農林水産省は「目指していたのだ」と言い訳しそうである。

これに対して、米国では、土壌有機炭素の蓄積、CO2排出や土壌流亡の抑制のため、カバークロップ、作物残差の還元(crop residue-returned farming)や不耕起栽培(no tillage)に、農家自ら率先して取り組んでいる。日本なら農家に取り組ませるためには補助金が必要だというのかもしれない。何もしないでも農業は環境によいと思っている日本と、環境改善が自己の経営に必要だと考えて真剣に取り組んでいる米国との違いは大きい。環境面でも、日本農業は自助の精神に欠けている。

農業に対する環境面での制約が高まる中で、食料安全保障を確保しようとすると、石油、肥料、農薬などの使用を削減しながら生産を増やさなければならない(produce more with less)。そのためには、減反を廃止することは当然のことであるが、ゲノム編集などを活用した品種改良にも剣に取り組む必要がある。米単収向上のための品種改良を技術者に禁じてきた農政など論外である。