メディア掲載  グローバルエコノミー  2022.10.27

食料・農業・農村基本法見直しの背景はなにか

政治に翻弄された農政の軌跡から見えてくる揺り戻しの正体とは

論座に掲載(2022年10月11日付)

農業・ゲノム

食料安全保障の強化や1次産業の成長産業化などを理由に、食料・農業・農村基本法が見直されることになった。これまで、農政は政治と圧力団体に左右されてきた。同時に、農政は国内政治以外の事情にも大きく左右されてきた。本稿では、政治に翻弄された戦後農政の軌跡を紹介し、基本法見直しの背景に何があるのかについて、解説したい。これが理解できれば、農林水産省等がどういう方向で基本法を見直そうとしているのかがわかるだろう。農林水産大臣は国民の各層の意見を聴くと言っているが、方向性は決まっているはずだ。

戦後農政を規定した農地改革と農協設立

農地改革は、戦前から小作人解放のために努力した農林官僚の執念が実現したものだった。しかし、これによって自作農=小地主が多数発生し、戦前からの零細農業構造がむしろ固定されてしまった。

最初農地改革に関心を示さなかったマッカーサーのGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、やがてその政治的な重要性に気付く。終戦直後、小作人の解放を唱え、燎原の火のように燃え盛った農村の社会主義運動は、農地改革の進展とともに、急速にしぼんでいった。農地の所有権を獲得し、小地主となった小作人が、保守化したからだ。これを見たGHQ は、保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようとして、自作農という農地改革の成果を固定することを目的とした農地法(1952年)の制定を農林省に命じた。

農政官僚たちは、農地改革の後に零細な農業構造改善のために農業改革を行おうとしていた。1948年の農林省「農業政策の大綱」は「今において農業が将来国際競争に堪えるため必要な生産力向上の基本条件を整備することを怠るならば、我が国農業の前途は救いがたい困難に陥るであろう。」と述べている。この時、既に国際競争が意識されていたことは注目に値する。かれらは、現状を固定する農地法の制定に抵抗した。他方で、地主階級の代弁者だった与党自由党も、農政官僚とは逆の立場から、農地法には反対した。

保守党の支持基盤になった農村

しかし、のちに総理大臣となる池田勇人は、GHQと同様、農村を保守党の支持基盤にできるという、農地改革・農地法の政治的効果にいち早く気付いた。池田は、自由党をとりまとめ、農地法の制定を推進した。農地法は単なる農業関係の法律ではない。戦後という時期において、それは小農固定による強力な防共政策であり、保守党の政治基盤を築いたものだったのである。

マッカーサーや池田の期待どおり、農地法の自作農主義は農業の構造改革を阻害した。耕作者が農地を所有すべきだとする自作農主義は、借地農(小作農)を否定する。小さな自作農が所有地を耕すだけでは小さな農業しかできない。農地を買うことが難しくても、借りれば規模拡大して大きな農業を営める。東畑精一・東京大学教授は「自作農主義では丸ビルは建たない」と例えた。大きな丸ビルは多数の地権者から借りた土地の上に立っている。しかし、農地法は賃借権の解約制限等によって小作権の保護を図ろうとした結果、貸し手は農地を返してもらえなくなることを恐れ、農地は賃貸されなくなった。農地法は零細農業固定の立法だったのである。

こうして、農村は保守党を支える基盤となった。保守化した農村を組織し、自民党を支持したのが、戦後つくられたJA農協だった。

戦後の食糧難時代、農家は価格の良いヤミ市場に米を販売してしまう。そうなると、政府が貧しい消費者にも均一に米を割り当てる配給制度を実施しようとしても、政府に米が集まらない。このため、農林省は、1948年戦時中の統制団体だった「農業会」を食糧の供出団体として活用しようとして、農業協同組合に改組した。農協は「看板を書き換えた農業会」といわれた。

農協=戦後最大の圧力団体の出現

農協は民主的な衣をまとって再生することになったが、国、都道府県、市町村からなる3段階制の組織体制の下で、中央の意向を末端に浸透させるという農業会の上位下達的、統制的な性格を引き継ぐことになった。しかも、他の法人には禁止されている銀行業務と他の業務の兼業が認められ、これが農協発展の基礎となった。そればかりではない。農業会は、政治活動を行っていた「農会」と経済活動を行っていた「産業組合」(協同組合)を統合したものだった。農協は万能の経済活動を行うとともに政治活動を行う団体としても設立された。ここに、戦後政治を規定する最大の圧力団体が出現したのである。

日本医師会も圧力団体だが、それ自体が経済活動を行うわけではない。欧米の農業の政治団体も同じである。しかし、JA農協だけは違う。その政治運動は、農家の利益というより自己の組織の利益を考慮したものになりがちである。高米価で滞留した兼業農家は、そのサラリーマン収入等をJAバンクに預金し、JAバンクは預金量100兆円を超える日本有数のメガバンクに発展した。JA農協が高米価・減反政策を推進する理由はここにある。

数奇な運命をたどった農業基本法

農業基本法がつくられたのは1961年だった。政治的な動機は農業保護と予算の確保だった。終戦直後我が国は大変な食糧難を経験した。しかし、この頃になると、米を中心に食糧生産は大幅に拡大し(米の生産量は、1945587万トン、46921万トンから601286万トンに増加)、農村地域出身の国会議員は、農業関係の予算が縮小されるのではないかという危機感を持つようになった。日本社会党の議員が、ドイツで基本法が作られ、これを契機に農業予算が拡大したことに着目し、日本でも基本法を作るべきだという主張を行うと、与野党を問わず農業関係議員が同調し、農林省に基本法の制定を迫るようになった。

これに対して、政府・農林省は、1959年農林漁業基本問題調査会法を制定し、同調査会を総理の諮問機関として設置した。会長は、シュンペーターの高弟である東畑精一だった。同調査会事務局長には、後に16年間政府税制調査会会長を務め「ミスター税調」と呼ばれた小倉武一が就任した。東畑、小倉という、当時の学界、官界を代表する最高の人材が基本法の検討に当たった。特に、食糧庁長官を退任したばかりの小倉が自らパリに長期滞在してフランスの基本法を研究するなど、農地改革以来、農林省が最も燃えた時期となった。

当時は、農業生産は回復したが、経済が復興するにつれ、農業所得が工場勤労者の所得を下回るようになっていた。このため、農業基本法は農工間の所得格差の是正を目的に掲げた。農業所得は、農産物価格に生産量を乗じた売上額からコストを引いたものである。価格または生産量を上げるか、コストを下げれば、所得は上昇する。しかし、価格を上げれば消費者家計に影響する。このため、基本法は農家規模を拡大してコストを下げる方法を選択した。戦前の2大農業問題のうち小作人の解放は農地改革で実現した。農政は、残る零細農業構造の改善を実現しようとしたのである。

誕生時から政治家にも農協にも見放され

しかし、このような農業基本法は国会議員たちの考えたものとは異なっていた。彼らは、農業の発展よりも、農業保護の確保・増大に関心があったのである。特に、社会党は貧農切り捨てというイデオロギー的な主張を行い、基本法に反対した。基本法案は、国会審議において、激しい与野党対決法案となった。かろうじて成立したものの、基本法を実施するための法案は全く成立しなかった。基本法は国会の支持を得られなかったのである。組合員を丸抱えしたいJA農協も、「営農団地構想」という独自のスローガンを掲げるとともに、基本法の構造改革を選別政策だと非難して協力しようとはしなかった。

成立後も、基本法は真面目に実施されなかった。自民党最大の支援団体であるJA農協の強力な政治運動を受けて、自民党政府は、農家所得向上のため、食糧管理法の下で政府買入れ価格(生産者米価)を大幅に引き上げた。池田内閣の所得倍増計画を引用し、農民の所得を倍増するためには米価を2倍にすべきだという主張がなされた。

当時は、農工間だけでなく都市と地方の格差も拡大していた。このため、地方に工場が積極的に誘致された。この結果、以前は農村を離れないと東京や大阪などの工場に就職できなかったのに、農村に居ながら工場に勤務できるようになった。米価の引き上げはコストの高い零細な農家の米作継続を可能とした。また、機械化の進展で米作への投下労働時間が大幅に減少し、工場等に勤務するサラリーマンが週末労働するだけで米は作られるようになった。以上の結果、農村に零細な兼業農家が大量に滞留してしまい、主業農家の規模拡大は実現しなかった。1965年以降サラリーマン収入と農業所得を合わせた農家所得は、勤労者世帯を上回るようになった。農工間の所得格差の是正は、農業の構造改革ではなく、農家の兼業化(サラリーマン収入)が実現した。

農林省も農業構造改善を顧みなくなった

人手不足を指摘される野菜や果物など労働を多く使用する農業と異なり、米麦などの土地利用型農業では、農家戸数が減少し、1戸当たりの規模が大きいほどコストは下がり、所得は増大する。基本法による零細農業構造の改善には、農家戸数が減少していくだろうという見込み・前提があった。しかし、農村が工業化され、農家は農村を離れなかった。

さらに、日本ではフランスのような厳格な土地利用規制(ゾーニング)がないため、農地が宅地や工場用地の価格と連動して上昇した。この結果、農地価格は農業の収益還元価格を大幅に上回るようになり、農地の売買による規模拡大も困難となった。東畑精一は、農林漁業基本問題調査会において一度も土地の価格を議論しなかったことを恥じて、その後農政に関わろうとはしなかった。

農業基本法は、制定後10年も経たないうちに、農林省からも顧みられなくなった。零細農業構造を改善して規模を拡大しようとすると、農家戸数を減少させなければならない。そうなると農業の政治力が低下して農業予算を獲得できなくなる。同省は、1900年柳田國男が農商務省に入省して以来の農政思想を放棄した。

農業基本法から食料・農業・農村基本法へ

しかし、米価引上げで60年代後半から米が過剰となり、3兆円もかけて過剰米をエサや援助用等に処理するとともに、1970年からは減反政策を本格的に実施するようになった。減反とは、農家に補助金を与えて米生産を減少させ、食糧管理制度の下で政府が買い入れる量を少なくしようという、同制度維持のための緊急避難的で完全に後ろ向きの政策だった。後に食糧管理制度が廃止されてからは、米価維持の唯一の政策となる。

しかし、減反を実施しても、米価を上げ続ければ、農家の米生産意欲は減少せず過剰はなくならない。1960年以降米価は大企業の労賃の上昇を反映する生産費所得補償方式によって、米の需給とは関係なく引き上げられた。この結果、減反政策は延々と続けられることとなった。

このような事態に対し、一部の農林官僚の働きかけを受けて、米価を上げるだけでよいのかという主張が、自民党農業関係議員の中から出てきた。中川一郎や渡辺美智雄などの人たちで、彼らは総合農政派と呼ばれた。渡辺美智雄は米価を上げて減反をするのはストーブとクーラーを同時につけるようなものだと批判した。

彼らは、食糧管理制度の赤字縮小のため、政府売り渡し以外の流通の道を開く自主流通米制度(1969年創設)を積極的に容認した。これは農林省が考えたものであるが、JA農協の反対を受けていた。1970年の減反(転作)についても、JA農協は全量政府買い上げを主張して反対していた。総合農政派は減反について、米から他の作物へ転作することに対して補助金を払い、米の過剰を抑制するとともに食料自給率を高めるのだと主張した。しかし、麦や大豆へ転作するには新しい機械や技術が必要である。週末しか農業をしない兼業農家はこのような対応はできないので、転作補助金をもらうため、麦等の種まきをする(形だけの転作を行う)だけで収穫しない捨て作りという対応をした。収穫しないので食料自給率は上がらなかった。

農産物自由化の外圧が構造改革を後押し

米問題と並んで、1980年代に入ると、日本の大幅な貿易黒字がアメリカ等から問題視され、日本に対して農産物自由化の要求が高まるようになった。輸入制限の撤廃や関税引き下げに対抗して、日本農業の国際競争力を高めるためには、規模拡大等の構造改革が必要となる。80年代後半以降になると米価など農産物の行政価格は据え置きまたは引き下げられるようになった。

ある意味で、農政のベクトルの向きを農業基本法に戻そうという考えがでてきた。ガット・ウルグァイ・ラウンド交渉が妥結する1993年には、「効率的かつ安定的な経営体」が生産の大宗を担うような農業構造の確立を目指し、市町村長は認定する農業者に施策を重点的に実施するという認定農業者制度が創設された。

このように農政が大きく転換する中で、ガット・ウルグァイ・ラウンド交渉妥結による米の部分開放、食糧管理法の廃止、経済界からの株式会社による農地取得の要求、中山間地域の荒廃などにより、農政を巡る状況も変化した。休眠状態にある農業基本法に代わり、新しい基本法を作るべきだという主張が、農林水産省の中から出されるようになった。農政の対象を農業以外に広げるべきだという考えから、新しい基本法の名称は「食料・農業・農村基本法」とされた。

食料安保と農業の多面的機能強化を理念に

新基本法が理念として掲げたのは、農家所得の向上ではなく、食料安全保障と多面的機能である。農業構造については、「国は、効率的かつ安定的な農業経営を育成し、これらの農業経営が農業生産の相当部分を担う農業構造を確立するため、(中略)農業経営の規模の拡大その他農業経営基盤の強化の促進に必要な政策を講ずるものとする。」(第21条)とし、農産物自由化への対応を強く意識したものとなった。農業分野においては、世界貿易機関(WTO)農業協定において、さらなる保護削減の交渉が予定されていたからである(第20条)。

政策的には、①食料自給率の向上、②株式会社による農地取得、③中山間地域等直接支払い、が大きな柱だった。農政としては、②についてある程度の道筋をつけなければ、経済界から農政に対する理解を得られなくなるのではないかという危機感があった。しかし、当然ながら農業界の守旧派は反対する。①と③は、農業界に②を飲ませるための飴玉だった。

農業基本法の時と異なり、主たる検討の場となったのは、松岡利勝衆議院議員(農相)を委員長とする自民党政調の基本政策小委員会だった。農業基本法は農林漁業基本問題調査会の東畑会長と小倉事務局長が中心となって作られたが、食料・農業・農村基本法の場合は、農林水産省が検討資料を作成して、松岡委員会で実質的な議論が行われた。私は、中山間地域等直接支払いの担当課長として、制度の企画・立案や政府部内の調整を行うとともに松岡委員長ほか自民党の農業関係議員に対して説明や説得を行ったりしたが、農林漁業基本問題調査会に相当する農政審議会の委員には一度も説明したことはなかった。検討過程に関しては、農業基本法とは、全てが逆だった。

新基本法見直しの背景=再度の揺り戻し

2020年に基本法に基づき策定された「食料・農業・農村基本計画」は、「経営規模や家族・法人など経営形態の別にかかわらず、担い手の育成・確保を進める」とし、大規模農家を軸とした農政(つまり農業基本法の思想)から大きく舵を切ったとして、JA農協や守旧的な農学会を中心とした農業界から高く評価されている。

次のような記述もある。「中小・家族経営など多様な経営体については、産地単位で連携・協働し、統一的な販売戦略や共同販売を通じて持続的に農業生産を行うとともに、地域社会の維持の面でも担い手とともに重要な役割を果たしている実態を踏まえた営農の継続が図られる必要がある。」(「食料・農業・農村基本計画」 39ページ)「中小・家族経営など多様な経営体が農業協同組合や農業法人の品目部会等により産地単位で連携・協働し、統一的な販売戦略や共同販売を通じて農業生産を行い、地域社会の維持に重要な役割を果たしている」(「食料・農業・農村基本計画」42ページ)これはかつてJA農協が農業基本法に対抗して主張した"営農団地構想"そのものである。

小農保護主義を復活させた「基本計画」

農地改革は多数の小地主を誕生させ農村を保守化した。平等な規模の小地主で構成された農村は、これに適合した組合員一人一票主義の農協によって組織され、保守党を支えた。保守党はこれに米価引上げで報いた。

2020年の「基本計画」は小農保護主義を復活させた。WTOは機能不全に陥っており、関税撤廃を要求されるかもしれないと思って戦々恐々としたTPP(環太平洋パートナーシップ)交渉も農業には大きな影響なく妥結した。農産物貿易の自由化は遠のいた。農業の国際競争力を心配しなくてもよい。ウクライナ侵攻で高まっている食料危機への不安を農業保護の増大につなげる好機だととらえているのではないだろうか?

2020年「基本計画」は、その元となる食料・農業・農村基本法に反している。今回、この基本計画の方向に沿って食料・農業・農村基本法を見直すのだろう。しかし、国際競争力をつけなければ農産物の輸出は増加できないのだが、それには気が付かないようだ。

「政治家の心の中に執拗に存在する農本主義」

東畑精一の「営農に依存して生計をたてる人々の数を相対的に減少して日本の農村問題の経済的解決法がある。政治家の心の中に執拗に存在する農本主義の存在こそが農業をして経済的に国の本となしえない理由である」という主張に、小倉武一は「農本主義は今でも活きている。農民層は、国の本とかいうよりも、農協系統組織の存立の基盤であり、農村議員の選出基盤であるからである」と加えている。

残念ながら、今の農学会や農林水産省には、東畑精一も小倉武一もいない。