第12回目の世界貿易機関(WTO)閣僚会合では、ロシアのウクライナ侵攻で小麦の輸出が滞り、中東やアフリカ諸国などで深刻化している食料危機への対応が最大のイッシューとなった。この閣僚会合もこれまでと同様、インドなど一部の国が反対して声明の採択が危ぶまれたが、会議を延長して協議した結果、6月17日、約6年半ぶりに閣僚声明を採択した。
具体的には、WTOルールに反する食料輸出規制を行わないことや、食料不足などへの懸念からやむを得ず導入する場合は、一時的なものとし、対象を絞り透明性を確保するとともに、WTOに措置を通知することなどが声明の内容である。
ここでいう「WTOルール」とは、輸出の禁止または制限をしようとする加盟国は輸入国の食糧安全保障に及ぼす影響に十分な考慮を払うなどとする、輸出規制に関するWTO農業協定第12条を指している。声明の内容は、同条をほとんど言い換えたに等しい。今回の閣僚声明が、これに何か新しいものを追加したのではない。また、声明なので、法的な拘束力を持つものでもない。
では、農業協定第12条は食料危機への対応に効果的な規定なのだろうか?
今では、農林水産省も外務省の職員も知らないだろうが、この規定は、ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉の最終局面で、日本が提案して導入したものである。そして、私は、この規定の実現に汗をかいた交渉団の1人だった。
なぜ、日本はこのような提案を行ったのだろうか?
実は、これは農林水産省や農業界が考えたものではなかった。
ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉において、農林水産省の最大の交渉目的は、輸入数量制限などの全ての非関税障壁を廃止して関税に置き換えるという「包括的関税化」に対して、少なくともコメについては、その例外を各国に認めさせることだった。政治的には、これが日本政府全体の最大の交渉目的と言ってもよかった。「包括的関税化」については、そもそも同交渉で最も影響力のある交渉国であったアメリカが提案したものであり、輸出国であり自由貿易推進派のオーストラリアやニュージーランドなどが積極的に支持していただけでなく、交渉途中で主要な交渉国であったEUも支持に回った。また、「包括的(comprehensive)」とは、一切の例外を認めないという趣旨だった。
四面楚歌とも言える状況下で、交渉終盤、なんとか例外が獲得できそうになった。そのとき、当時は野党に転落していた自民党の有力政治家から、「コメについての関税化の例外措置だけでは、日本として食料安全保障について頑張ったと言えないのではないか。もう一つ何かが必要だ」という主張が行われた。このため、急遽、食料安全保障の観点から、輸出国による輸出制限を禁止すべきだという提案を行うことになったのだ。
ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉が妥結したのは、1993年12月15日。日本がスイス・ジュネーブでこれを提案したのは10月の下旬だった。私は10月15日に日本を発ち、12月15日サザランド・ガット事務局長がジュネーブの国際会議場で小槌を振り下ろして交渉終了を宣言する場に立ち会った。
この間、私は主に、日本、アメリカ、EU、オーストラリア、ガット事務局で構成されるごく少人数の、農業協定最終ドラフティング交渉に参加していた。この中で、「コメの関税化の例外措置」も議論され、農業協定附属書5として実現した。この交渉のかたわら、輸出規制に関する日本提案を実現すべく各国への根回しを行った。
ウルグアイ・ラウンド交渉をリードしていたアメリカに反対されると、この提案の実現は難しい。しかし、輸出制限を規制するということは、食料輸出国であるアメリカに、輸出制限をしないという義務を負わせることになる。私は、アメリカの同意が得られないのではないかと不安でならなかった。
しかし、これは杞憂だった。あっさりとアメリカは受け入れたのである。「輸出制限はしない、自由貿易こそが食料安全保障の途だ」というのが、その主張だった。
逆に言うと、アメリカの論理からすれば、日本が食料安全保障を根拠にコメについての関税化の例外措置を導入する理由がなくなる。このため、農林水産省の交渉者の中には、輸出規制について提案すると「コメの関税化の例外措置」が実現できなくなるとして、これに強く反対する者もいた。私はジュネーブに到着したその夜、上司から電話で厳しく叱責されたが、もう政府として決めたことなのだからと言って、なんとか納めてもらった。
同じく輸出国であるオーストラリアも、EUも反対しなかった。EUはアメリカとの間に大きな交渉事項を抱えており、この問題に時間を割いている余裕はなかった。農業についての主要な交渉国、アメリカ、EU、オーストラリアの同意が得られたので、私は、この提案は問題なく実現できると思った。それだけ、この3カ国の力は強かったのである。
ところが、意外なことに、インドの大使から強く反対された。「インドのような国では、作況次第で輸出国になったり輸入国になったりする。食料が足りなくなったときに輸出しろと言われても困る。そもそも自国が困ったときに輸出制限をするのは当然ではないか。」と言うのだ。小柄な男だったが、当時のジュネーブの交渉団の中では大きな影響力を持っていた。彼を説得できないと、日本提案は実現できない。
最終的には、日本提案は、輸出制限を行おうとする国はWTO農業委員会に通報して、輸入国と協議するという規定(WTO農業協定第12条)となって実現した。しかし、インドの反対を考慮して、純食料輸入開発途上国には適用しないこととした。これでインド大使を説得したのである。
長々と農業協定第12条の交渉過程を説明したのには、理由がある。アメリカやインドの主張には実態的な裏付けがあるからである。それを説明しよう。残念なことに、我々日本の交渉団は、それを知らないで、輸出国の輸出制限を規制すれば、日本の食料安全保障につながると思ったのだ。我々は、極めてナイーブ(無知)だった。しかも、現在の日本を含めた世界の交渉者たちの認識も、当時の我々と同じレベルなのだ。
いずれもFAOSTAT(国連食糧農業機関統計)より筆者作成、単位100万トン
アメリカ、カナダ、オーストラリア、ブラジルなど穀物や大豆の大輸出国では、生産量の相当部分が輸出に向けられている。
小麦の場合、輸出が生産に占める割合は、ロシア43%、アメリカ53%、カナダ74%、ウクライナ72%、アルゼンチン52%、オーストラリア72%、となっている=グラフ上。大豆では、ブラジル68%、アメリカ57%、アルゼンチン13%である(2020年)=グラフ下。
アルゼンチンの大豆輸出が少ないのは、国内で大豆油に加工し、付加価値をつけてから輸出するため、大豆には輸出税を課して輸出を制限しているからである。
アメリカやオーストラリアが穀物を輸出するのは、国内の消費量に比べて生産量が多いので、余剰分を輸出に回さずに国内で売ろうとすると、国内価格が国際価格よりもかなり低くなるからである。一方、国際価格がいくら下がっても、消費量を上回る生産量を抱えている以上、輸入国になるという事態は想定されない。国際価格が低下しても、アメリカが穀物の輸出を止めて輸入することはない。輸出を止めると、これまで供給されていた量の倍以上が国内市場に供給され、国内価格は暴落する。国際価格が低下するのは、これらの国が輸出量を増やし過ぎた場合が多い。
次に、これらの輸出国は豊かな先進国だということである。ロシアやウクライナを除き、価格が上がっても、先進国なので消費者は食料を買うことができる。輸出を規制する必要はない。アメリカでも日本でも、食料支出のほとんどは加工・流通・外食のコストであり、農産物の占める割合は10~20%程度にすぎない。2008年のように穀物等の価格が大幅に上昇しても、全体の食料支出にほとんど影響しない。
価格上昇時は、主要輸出国の生産者にとって稼ぎ時である。輸出制限をすれば、輸出に向けられた膨大な量が国内市場にあふれ、国内価格は暴落し、農家経営は破綻する。2018年から19年にかけての米中貿易戦争では、中国の輸入制限によって輸出できなくなったアメリカ産大豆は農家の庭先に野積みされ、価格は低下し、連邦政府による巨額の支援策が必要となった。アメリカが輸出制限を行った場合にも同様なことが起きる。
よくアメリカなど特定の国からではなく輸入先を分散、多角化すべきだと主張されるし、政府の文書でも、そのような主張が記述される。しかし、これらの国が輸出制限を行わない以上、その必要はない。農林水産省自身、小麦の国家貿易では、この半世紀以上、アメリカ(シェア60%)、カナダ(同25%)、オーストラリア(同15%)以外の国からはほとんど輸入していない。
小麦貿易について、ロシアは例外である。これまでロシアは国際的な穀物価格が高騰した際、輸出制限を行ってきた。次のインドと同様、自由に輸出が行われると、価格の低い自国から国際市場に穀物が供給され、国内の供給が減少し、価格も国際価格と同水準になるまで上昇する。このとき、所得の高いアメリカやカナダなどと異なり、ロシアのように、所得が低く、そのかなりの部分を食料品に割いている国では、穀物価格上昇に国民が耐えられなくなるからだ。輸出を制限すると、国内価格を国際価格よりも低く抑えることができる。
過去、アメリカが輸出制限をした例が2回ある。
1973年、家畜のエサとして利用していたペルー沖のアンチョビーが不漁になったため、アメリカでは、その代替品として「大豆かす」への需要が増大した。当時、アメリカは世界の大豆輸出量のほとんどを占めていた。そのアメリカが国内の畜産農家への大豆供給を優先するため、わずか2カ月間だったが大豆の輸出を禁止した。このため、大豆製品の消費が多く、アメリカの大豆供給への依存度の高い日本は混乱した。アメリカは牛や豚のエサに使うために、日本人が味噌、豆腐、納豆、醤油などとして食べるために必要な大豆を禁輸したのである。
FAOSTAT(国連食糧農業機関統計)より筆者作成
将来の供給不安を覚えた日本は、ブラジルのセラードと呼ばれる広大なサバンナ地域の農地開発を援助した。以来ブラジルの大豆生産は急激に増加した。1961年に比べると2020年は449倍である。世界の大豆生産に占めるシェアは、1961年にブラジル1.0%、アメリカ68.7%と圧倒的な差があったものが、2020年ではブラジルが逆転し、37.2%対28.8%となっている。ブラジルは、瞬く間に大豆輸出を独占してきたアメリカを凌駕する大輸出国になってしまった=グラフ。
次に、1979年、アフガニスタンに侵攻したソ連を制裁するため、アメリカはソ連への穀物輸出を禁止した。しかし、ソ連はアルゼンチンなど他の国から穀物を調達し、アメリカ農業はソ連市場を失った。あわてたアメリカは、翌年禁輸を解除したが、深刻な農業不況に陥り、農家の倒産・離農が相次いだ。独占的な輸出国でない限り、外交・政治的観点から戦略的に穀物を利用することはできない(1973年の大豆禁輸の際、その時点ではアメリカ農業に被害が起きなかったのは、禁輸の期間が短かったことに加え、当時アメリカが大豆の輸出を独占していたためである)。2度の失敗に懲りたアメリカは、もう輸出制限をしようとはしない。
2008年に穀物や大豆の価格が3倍に上昇した。最大の原因は、トウモロコシをガソリンの代わりとなるエタノールの原料として使用することが増えたからだった。アメリカ政府は、地球温暖化に優しい燃料だ(植物が固定した温暖化ガスを放出するだけで、温暖化ガスを増やさない)という理由で、エタノール生産を振興した。トウモロコシ価格の上昇は、生産や需要の代替性を通じて、大豆や他の穀物にも波及した。これは、その年開かれたG7の洞爺湖サミットでも大きな議題となった。食料危機を招いたのはアメリカだという国際的な批判を受けたが、アメリカは政策変更に応じようとしなかった。
インドやベトナムは米の輸出を禁止した。このときインドなどが不作になったわけではない。アメリカのエタノール政策によって、穀物、とりわけ米の国際価格が高騰しただけである。
しかし、自由な貿易に任せると、米は価格が低いインド国内から高い価格の国際市場に輸出される。そうなれば、国内の供給が減って、国内の価格も国際価格と同じ水準まで上昇してしまう。
収入のほとんどを食費に支出している貧しい人は、食料価格が2倍、3倍になると、食料を買えなくなり、飢餓が発生する。インドはこれを防ごうとしたのである。ベトナムもインドに追随した。一方、かつては輸出制限を行っていたタイは、所得水準が上昇しているので、同調しなかった。
このようなインドやベトナムの行為は、国際市場への輸出を減少させて、国際価格をさらに押し上げ、フィリピンなどの輸入国の貧しい人に影響を与えた。しかし、国際社会として、国内で飢餓が発生するかもしれないインドなどに、輸出しろとは言えない。しかも国際価格の高騰にインドは何らの責任もない。
今回、インドが小麦の輸出制限を行ったことが、世界の食料危機を招くとして報道されている。インドは世界第2位の生産国だからだというのだ。おそらく欧米の報道を受け売りしたものだろう。
確かに、インドの小麦生産量は1億トンを超える。しかし、輸出量は93万トンに過ぎない(2020年)。人口が多く国内消費が大きいからだ。これに対して、アメリカやカナダの輸出量は、それぞれ2600万トンである。日本の輸入量は500万トン程度である。インドが輸出を禁止しても、世界の小麦需給に大きな影響はない。
世界で20カ国も輸出制限しているというが、これらの国で世界の穀物や農産物需給に影響を与えるような国はない。インドと同様、国際価格の上昇による消費者への影響を避けるため、防御的に行っているに過ぎない。ファクトに基づいた報道が望まれる。
アメリカのような大輸出国が輸出制限をすることはないし、インドのような途上国が輸出制限をしても、国内に飢餓を生じさせてまで輸出しろとは言えない。輸出制限についての国際規律は、このような限界を持っている。
このような実態も反映して、輸出制限はたびたび行われているにもかかわらず、WTO農業協定第12条に基づく農業委員会への通報は、ほとんど行われていない。今回閣僚声明に通報するようにという文言が入ったことは、これまで通報されていないことの裏返しである。同条を導入した日本政府も、輸出制限国に真剣に抗議したこともない。世界の食料安全保障の解決のためには、途上国における貧困の解決、食料生産の拡大がより重要なのである。
WTO農業協定第12条だけでなく、WTOの規律は、輸出制限行為に対して欠陥を持っている。輸入については、関税も数量制限も規律している。関税は約束した上限まで設定できるが、数量制限は農業協定で禁止された。これに対して、農業協定第12条は、輸出の数量制限について一応の規制はしているものの、EUが1995年から97年にかけて課した輸出税については、国際経済学では輸出税も輸入関税も同じ効果を持つ(ラーナーの対称性定理)とされてきたにもかかわらず、規制されていない。
輸出税によって、国内価格は国際価格よりも低下する。加工業者は他の国の競争者よりも安い価格で原材料を仕入れることができる。アルゼンチンの大豆と同様、インドネシアやマレーシアなどが丸太に輸出税を課すのは、木材加工品の輸出振興が目的である。輸出税はWTOでは禁止されている輸出補助金と同等の効果を持つ。なお、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定では、域内向けの輸出税は禁止・撤廃された。
当時もあまり注目されなかったが、WTO農業協定に輸出規制に関する第12条を導入したことは、日本の交渉団の成果だった。しかし、この規定が、世界の食料危機を解決するものではない。現在の最大の問題は、ロシア海軍に港を封鎖されているウクライナからの穀物輸送である。これについては、農業協定第12条の射程外である。