ロシアもウクライナも小麦の大輸出国(それぞれ国としては第1位と第5位)となっている。ただし、EU諸国をまとめると、EUが6100万トンで首位、続いてロシア(3700万トン)、アメリカ(2600万トン)、カナダ(2600万トン)、ウクライナ(1800万トン)と続く。1973年の食料危機が旧ソ連の穀物大量買い付けによって引き起こされたように、かつてロシアは世界最大の小麦輸入国だったのであり、輸出国となったのは、2000年代以降である。このため、黒海周辺の両国は、新興輸出国と言われる。また、両国の小麦は、品質的には、アメリカ等に劣り、仕向け先としては中東が主である。ただし、両国が、戦争による物流の混乱などにより小麦を輸出することが困難になると、世界全体の小麦供給量が減少し、高品質な小麦を含めて、価格水準は上昇する。
小麦の輸出状況
また、ロシアのウクライナ侵攻後、原油価格が大きく上昇している。トウモロコシからエタノールというガソリンの代替品が作られる。原油価格が上がってガソリン価格が上がると、代替品であるエタノールへの需要も高まり、その価格も上がる。そうなると、エタノールの原料であるトウモロコシの価格が上がり、その代替品である他の穀物価格に波及していく。2008年には、このような事態が起きた。このように、原油価格と穀物価格が連動するようになっている。また、ウクライナは世界第4位のトウモロコシ輸出国でもある。
供給面では、ロシアとウクライナからの小麦やトウモロコシの輸出の減少があり、需要面では原油価格上昇によるトウモロコシ需要の高まりや他の穀物への波及がある。このため、小麦だけでなく、トウモロコシ、大豆など日本が輸入に依存している農産物の価格が上昇することが予想される。日本は、農水省という国家貿易企業によって、アメリカ、カナダ、オーストラリアから高級な小麦を輸入しているが、その価格も上昇する。
何人かの民間エコノミストが、テレビに出演して、小麦の用途は裾野が広く、パン、ラーメン、うどん、スパゲッティなどさまざまな食品の原料なので、家計が影響を受けると指摘していた。
しかし、「食糧安保を脅かす農業政策〜コロナ後と円安、浮かび上がる国家的危機」(2021年12月25日)で指摘したように、これは誤りである。今回と同様、2008年小麦の国際価格が2~3倍に上昇し、パンなどの価格も上がったとき、食料品全体の消費者物価指数は、2.6%上がっただけだった。2012年ころ穀物価格が騰貴したときも、食料品の消費者物価指数はほとんど変化していない。
大きな理由は、小麦の輸入額は、日本全体の飲食料費支出の0.2%に過ぎないことである。我々が払う飲食料費の9割は、加工、流通、外食に帰属する。農産物への帰属はわずかで、特に小麦を含めた輸入農産物への支出は2%である。
さらに、先ほどの、原油と穀物(ガソリンとエタノール)のように、消費には代替性がある。牛肉の値段が上がると、豚肉の消費を増やそうとする。我々は、パンやラーメンなどの小麦製品だけを食べているのではない。パンの値段が上がれば、その代替品である米の消費が増える。2008年には、それまで減少していた米の消費が増加した。
財やサービスに代替性があり、消費者が、一定の所得を前提に、財やサービスの相対価格を考慮して、適正な財の組み合わせを決定することは、ミクロ経済学の初歩である。食料の消費や需給を検討する際に、「代替性」は重要なキーワードである。
なお、2008年米の消費が増えたのは、スーパーの棚にフリカケが並んだからだという(珍)説が、農水省の中でもっともらしく伝わり、かなりの職員が信じていた。実際にはパンなどの小麦製品の価格が上がったから、相対的に価格が低下した米の消費が増えたのだ。米の消費が増えたのでスーパーはフリカケの販売を増やした。因果関係は逆である。この説が正しいなら、フリカケをたくさん売れば米の消費は簡単に増やせることになる。残念ながら、農水省の職員のほとんども、経済学を知らないで、農業政策を作っている。
余る牛乳をもっと飲もうという運動があるが、ほとんどの牛乳は輸入トウモロコシをエサとして作られるので、自給率は上がらない。パンやラーメンなどの原料はほぼ100%輸入小麦である。讃岐うどんの原料もオーストラリア産小麦だ。小麦の価格上昇は、ほぼ100%国産の米消費の増加を通じて、食料自給率を向上させる。食料自給率を上げたいと思う人たちにとって、輸入農産物の価格上昇は、悪い話ではない。
ところが、3月11日、農水大臣は、小麦価格を上げても米で代替できるのではないかという記者の質問に対して、次のように答えている。
「主食は米だから。お米を食べてもらいたいと思いますが、小麦の業界の人たちもいろいろいらっしゃるしね。こういう値上げの時に、米を米をという訳にもいかないでしょう(中略)。国内で自給できるのは米だし、米は余っていますから。そういう意味では、米を食べてもらいたいという気持ちはあるけれども、やっぱり、パンの業界もあればいろんな業界の方もいらっしゃいますから、そういう方の立場を考えると、こういう厳しいときに、改めて、私どもで、いろいろと、米を、というのは、やっぱり控えなければいけないかなと私は思いますけど。」
農水省にとって、食料自給率向上は農業保護を維持するための口実であって、本気でこれを上げようとする気持ちはないのだ。
マスメディアは、穀物価格の上昇が日本に及ぼす影響にだけ関心があるようである。ロシアやウクライナについては、どうだろうか?
次の図は、小麦輸出国の生産と輸出の関係を示している。主要な輸出国において、輸出が生産に占める割合が大きいことに気づかれるだろう。この割合は、ロシアで43%、ウクライナでは73%にも達する。アメリカ、カナダ、オーストラリアなど日本が輸入している国も同様である。
小麦輸出量・生産量(2020)
これらの輸出国が、小麦を輸出できなかったとすると、国内で小麦があふれることになる。小麦価格は大幅に低下すると同時に、サイロに収納できない小麦が農家の庭先に野積みされることになる。
特に、かつて手痛いダメージを受けたアメリカが輸出制限をすることはない。1979年アフガンに侵攻したソ連を制裁するため、アメリカはソ連への穀物輸出を禁止した。しかし、ソ連はアルゼンチンなど他の国から穀物を調達し、アメリカ農業はソ連市場を失った。あわてたアメリカは、翌年禁輸を解除したが、深刻な農業不況に陥り、農家の倒産・離農が相次いだ。
最近の米中貿易戦争で、中国がアメリカ産大豆の関税を大幅に引き上げたときにも、輸出できなくなったアメリカの中西部の農家は多額の政府援助に頼らざるを得なくなった。
輸出できなくなったり、輸出制限を行ったりすると、アメリカが経験したと同様のことがロシアやウクライナに起きる。
しかし、これまでロシアは国際的な穀物価格が高騰した際、輸出制限を行ってきた。自由に輸出が行われると、価格の低い自国から国際市場に穀物が供給され、国内の供給が減少し、価格も国際価格と同水準になるまで上昇する。このとき、所得の高いアメリカやカナダなどと異なり、ロシアのように、所得が低く、そのかなりを食料品に割いている国では、穀物価格上昇に国民が耐えられなくなるからだ。輸出を制限すると、国内価格を国際価格よりも低く抑えることができる。
ロシア政府は3月14日、ベラルーシやカザフスタンなどの近隣諸国への小麦など穀物の輸出を一時的に制限することを決めた。大幅なルーブル安で生活物資の価格が高騰している。自給できる小麦などの穀物価格は低く抑え、国民生活の負担をできる限り少なくしようとしたのだろう。ロシアにとってベラルーシは、ウクライナ侵攻の直前まで共同軍事演習を行い、またウクライナへの派兵を要請したという報道がなされるくらいの同盟国である。そのベラルーシへの輸出を制限しなければならないことは、ロシアの国民生活が相当厳しい状況に追い込まれていることを示唆している。