メディア掲載  グローバルエコノミー  2022.02.25

国民と政府 対等な政策論を

日本経済新聞 電子版【経済教室】2022年2月15日

経済理論

ポイント
○合理的期待の思考法が政策論議を民主化
○当局には他者の思考を推し量る力が必要
○国民の不安に応えコロナ検査を拡充せよ


世界的な感染症や長期経済停滞時の政策論を考える際に、経済学を使う意義はどこにあるのか。経済学の特徴である合理的期待理論の思考法が政策論議を「民主化」する、という論点から考えてみたい。

合理的期待理論では「人間は合理的な思考にもとづいた将来期待を持ち、その期待の下で行動するはずだ」と考える。この合理的期待の「合理性」には、実は、2つの意味がある。

1つは、ふつうの意味での合理性である。迷信にとらわれない、数学的な思考や論理的な思考ができる、ということである。

合理的期待の合理性にはもう一つ別の意味がある。それは「他者の思考や期待を推し量る」という人間の性質である。これは数学的論理的思考ができるかどうかとは次元が異なる。

他者の思考を推し量る、という「合理性」は人間の基本的な性質である。この「合理性」の下では、他者は私の期待を推し量り、私は他者の期待を推し量る。すると、「私は他者の期待をこのように推し量る」と他者は考える、と私は考える、と他者は考える(以下繰り返し)、という具合に、私と他者がお互いの思考を読み合う無限のループが発生する。すると、「私の期待は(他者が推論するだろうと私が推論するところの)私の期待に依存する」という自己言及性または再帰性を持つことになる。

◇   ◇

このような自己言及性を内包するシステムとして世界を捉えることが、「他者の思考を推し量る力=合理性」から導かれる経済学的思考のユニークな特徴である。物理学では量子力学の理論が同様な自己言及性を持っている。「観測者が物理システムの内部にいて観測対象に影響を与える」という、自己言及性である。

量子力学以前の古典物理学には自己言及性はない。現代の合理的期待理論の経済学とそれ以前の経済学との違いは、古典物理学から量子力学への飛躍に匹敵するものと言っていいかもしれない(図参照)。

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「他者の思考を推し量る力」は、政策論議において、重要な倫理的意味を持つ。それは、パターナリズム(家父長的な権威主義)への根本的批判である。他者の思考を推し量ることは、「自分が相手の立場だったらどう考えるか」と考えることである。

合理的期待理論の世界では、政策当局者は「自分が国民の立場だったらどう考え、行動するだろうか」と考える。国民も、政策当局者の意図は何か、と相手の立場に立って考える。政策当局者も国民も、同じ「合理性=他者の思考を推し量る力」を持った平等な存在である。当局者も国民も知的に対等である、という意味で、合理的期待理論の枠組みで政策を論じることは、政策論の「民主化」と言えるだろう。

それに対して、政策当局者がしばしば陥りがちなパターナリズムとは、愚かな国民を賢明なエリートが領導するという思想である。そこにはまず「国民は、自分たち=政策当局者ほどものを考えない」という暗黙の前提がある。パターナリズムのベースにあるのは、国民は愚かだという固定観念である。このような固定観念の下では、政策当局者は「政策に対して国民がどのように考えるか」を真剣に考えない。政策当局者はパターナリズムに陥ると、他者の思考を推し量る力という合理性を失う。

このようなパターナリズムによる合理性の喪失を、倫理的不整合と呼びたい。政策当局は、「自分が国民の立場だったら考えるだろうことを、国民は考えない」と想定するわけだから、この想定は不整合的である。また、国民を愚かであるとみなす点で、この想定は非倫理的である。この意味で、パターナリズムの政策当局は倫理的不整合に陥っているわけだ。

政策当局者が倫理的不整合に陥ると、当局者が想定もしなかった国民の反応が起きて、政策が思いもよらない失敗に帰することがある。不良債権処理の先送りはその好例である。1990年代のバブル崩壊で大量の不良債権が発生したが、不良債権の償却処理は即座に進められず、何年も先送りされた。当時の銀行行政は、一部の専門家エリートが護送船団方式で銀行システムを維持管理する典型的なパターナリズムだった。

彼らは、不良債権処理の先送りは、銀行システムを破綻させないためにやむを得ないと考えた。銀行業界の秩序を平穏に維持していくためには、銀行の財務健全性を傷つけない範囲で、段階的に不良債権処理を進めるしかないと判断した。「銀行業界の外の消費者や企業の反応がどうなるか」について真剣に想像力をはたらかせることができていなかったのだ。

実際には、不良債権が処理されずに膨張していく中で、国民は「どの企業が不良債権化しているのか分からない」「取引相手の企業や銀行がいつ破綻するかわからない」という不安と相互不信にさいなまれ、経済活動が全般的に萎縮していった。これは銀行業界の外側で発生した巨大な経済コストである。政策当局が合理性=国民の思考を推し量る力を持っていたら、おそらく軽減できたであろう。

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同じタイプの失敗と思われるのが、新型コロナウイルス流行下で続いたPCRなどの感染症検査に対する抑制的な対応である。

医療政策や公衆衛生の政策当局者は、感染者を効率的に発見して治療につなげることが感染症検査の役割なので、なるべく感染者を発見できる確率の高い対象者(濃厚接触者など)に検査対象を限定すべきだと考える。この立場からは、無症状の一般市民にランダムに検査しても、感染者を発見する確率は低いので、検査の時間と資源の無駄遣いだ、という判断になる。これが、検査対象を絞り込み、検査件数も抑制するという政策につながった。

結果、国民は検査が少ないことによって「誰が感染しているか分からない」という相互不信にさいなまれ、社会経済活動の必要以上の収縮が起きたと考えられる。国民の思考過程を推し量ることを政策当局が軽視したために、感染症検査の抑制がもたらす社会経済的コストが過小評価された。

もっとも、国民の不安解消という社会経済的機能は、感染症検査の本来の機能ではない。感染症検査が事実上、経済政策として機能したために、政策判断が混乱した不幸な出来事だったともいえる。

オミクロン型の流行下ではワクチンの感染予防効果が小さいので、当面は、検査陰性を条件に就業や行動制限を緩和し、社会経済活動と感染症対策の両立を目指すしかない。コロナ禍の当初から検査体制の拡大が課題だったが、あらためて検査拡大が重要な政策課題として浮上している。政策当局が倫理的不整合に陥らず、合理性すなわち「国民の思考を推し量る力」を持って政策を決定することが求められている。