たった一日で人の心はかくも変わるものか。各種目の試合をテレビで見て、スポーツの力を改めて思い知った。国籍に関係なく、努力した選手の活躍には体が熱くなる。
その五輪開幕日に某主要紙社説は「とにかく大会が無事に終わってほしい。多くの人に共通する率直で最大の願いではないか」と書いた。おいおい、5月26日に「今夏の開催の中止を決断するよう菅首相に求める」と大見えを切ったのは、どこのどなたか。
テレビ局も同様。2週間前に五輪を太平洋戦争に準(なぞら)えて「どうにかなるという雰囲気で進んで大惨事になった」と批判した某司会者が、何と今週は五輪を「伝えなければならない」と述べたそうだ。言論には最低限の一貫性が必要だと自戒する毎日である。
日本のメディアだけではない。開幕直前に独紙東京特派員の電話取材を受けた。「トラブルとスキャンダルまみれの東京五輪をどう思うか」と聞かれた。ドイツ人にしては発想が日本的だと感じた筆者は「東京五輪は日本のものではない。コロナ禍を克服する人類全体の祭典だから必ず開催すべきだ。報じられた問題は言語道断だが、五輪と国内政治は明確に区別すべきだ」と答えた。これが記事になったかどうかは知らない。
二十数年前の芸人時代にホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を揶揄(やゆ)したとして開会式演出担当のアーティストが解任されたのは当然だ。しかし、その開会式では知識豊富なはずの某局アナウンサーがイランを「アラブ諸国」と紹介していた。それは誤りで、イランはペルシャの歴史を受け継いでいると、その場で指摘できた日本人がどれだけいたか。ペルシャとアラブの違いも知らない人々が元芸人のホロコースト揶揄を批判する光景は、外交問題というより国内政治の一断面に近い。
前回の東京五輪当時、筆者は11歳の小学生だった。幸運にも入場券が手に入り、母親と国立競技場に閉会式を見に行った。当時の日本は冷戦下の高度成長期、急速に「国際化」が進んだ時代だ。世界から有力選手が集まり、史上最大の五輪大会が東京で開かれた。当時オリンピックは日本人にとって文字通り「国際主義」の象徴だった。
あれから57年、時代は大きく変わった。日本では「国際化」が当たり前となり、今ではその質が問われている。パンデミックの影響で外国から来日する選手、役員、記者は最小限となり、各国チームと自治体との交流も多くは中止された。しかし、日本の「国際化」は静かながら確実に進んでいる。その象徴が開会式の聖火点灯式だったと思う。
テニスのトップスターが聖火リレー最終ランナーと聞いて初めは驚いたが直後に「正しい判断」だと快哉(かいさい)を叫んだ。それでも、ネット上には「大坂なおみのせいで何もかもが台無しになった」「なんで日本人じゃないのに?」といった心無い批判が散見される。
彼女は日本で生まれた二重国籍者だったが、22歳を迎えるに当たり米国籍を放棄し、日本国籍を選択した。正真正銘の日本人だ。日本、ハイチ、米国の文化を知る「国際人」でもある。最終ランナーは日本人の五輪功労者や元メダリストの方がよかったという声もあるが、それでは東京五輪が「人類の平和の祭典」にならない。彼女は日本で今起きつつある真の「国際化」の象徴であり、欧米主要紙の論調も「大坂なおみ」の選択には好意的だ。
彼女を選んだのも意図的だったとの批判もあるが、筆者はそう思わない。オリンピックぐらい「政治化」せず、素直に楽しんでほしいものだ。