メディア掲載  グローバルエコノミー  2021.06.14

耕作者主義の崩壊(2)

『週刊農林』第2449号(6月5日)掲載

農業・ゲノム

農地の圧力団体は誰なのか?

米価や減反政策については、JA農協が政治的な圧力団体であることは周知の事実である。しかし、農地政策の圧力団体は誰なのだろうか?

新しい基本法の施策を検討していた際、私が所属する構造改善局(当時)はその3本柱のうち二つを抱えていた。一つは私が担当した中山間地域等直接支払いであり、他の一つは株式会社の農地取得問題だった。JA全中の専務と構造改善局との間で、何度かこれらの問題について意見交換を行った。その際、全中専務はあまり農地問題に取り組んでこなかったので、後者の問題に全中としてどのようなスタンスを採ったらよいのかよくわからないと述べていた。

米価のように農家の所得に直接影響する政策と異なり、農地は運動として取り上げにくかったのだろう。JA農協は、組合員農家が農地を転用して得た利益を運用して大きな利益を得た。しかし、農地転用の促進は表立って主張できない。

戦前からJA農協は農地問題に関与しなかった。戦前農政の中心問題は農地だった。農家の貧困は小作問題と零細規模という農地に関する問題から生じたからである。しかし、地主や上層農の資金融通団体だった初期の産業組合(今のJA農協の前身)は、当然ながら小作問題に関与しなかった。

農山漁村経済更生運動の結果、小農や小作農が産業組合の組合員となった後も同じだった。農林大臣として農地改革を遂行した和田博雄は、当時産業組合が地主と小作人との問題(土地問題)に何もしていないと批判している。「更生計画の効果が挙がれば挙がる程村の地価は上昇し、不在地主は座ながらにして村の更生の果実を享受し得るの矛盾を真剣なる村の指導者達は知るに至ったのである。斯かる方面よりしても土地の所有関係の再調整は何よりも必要となったのである。この農村内部の基本的な構造的な変化に対して従来の農業団体はいかに適応し得たか。殊に産業組合はその組合員たる農民の為めに何をなし得たか。(中略)殆ど大半の組合は土地問題に関する限り何事も為していない。(中略)農業生産力の発展を阻害する最大の障害たる土地関係に対して、協同組合たる産業組合がしかく無能力なりしことは何を語るか。」(『昭和農業発達史』富民協会1937年12月所収)

農地問題を扱う農業委員会を束ねる全国農業会議所には、農協のように単独で農水省と対峙するような政治力はない。しかし、農水省の内部に、自作農主義とか耕作者主義とかを金科玉条のように信奉し、農地法をかたくなに守ろうとする勢力があるのである。


自作農主義の起こりと呪縛

戦前小作人解放に執念を燃やし続けた石黒忠篤は、1920年農商務省・農政課の中に小作法案を検討する小作分室を設置した。ここには社会主義者を集めているという批判があった。小作争議には社会主義勢力も関与したため、小作人を擁護する農林省に官憲は厳しい態度をとった。

終戦直後、小作人の解放を唱え、燎原の火のように燃え盛った農村の社会主義運動は、農地改革の進展とともに、急速にしぼんだ。農地の所有権を獲得し、小地主となった小作人が、保守化したからだ。これを見たGHQは、保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようとして、農地改革の成果を固定することを目的とした農地法の制定を農林省に命じた。

戦前の農民の貧困は、収穫量の半分を小作料で取られる小作問題だけでなく、小作人の耕作規模が小さいことにも原因があった。このため、柳田國男は離農を促進して残された農家の規模拡大を主張した。彼の思想を継いで、農地改革の後に零細農業構造改善のために“農業改革”を行おうとしていた農政官僚たちは、農地法の制定に抵抗した。地主階級の代弁者だった与党自由党も、農政官僚とは逆の立場から、農地法には反対した。

しかし、後に総理大臣となる池田勇人は、GHQと同様、農村を保守党の支持基盤にできるという、農地改革の政治的効果にいち早く気付いた。池田は、自由党の内部をとりまとめ、農地法の制定を推進した。農地法は強力な防共政策だった。保守化した農村を組織し、自民党を支持したのが、農協だった。社会主義勢力が推進した小作人解放運動の結果作られた、自作農主義や小作権の強化という社会主義的な農地法が、保守党の長期政権を支えることになった。歴史の皮肉である。

自作農主義は、農地法第1条の「農地はその耕作者みずからが所有することを最も適当であると認めて」という規定を根拠とした。しかし、これは和田とともに農地改革を実施した当時の山添利作事務次官が、思い付きで書き込んだものだと言われる。

これが次のように農林省の担当者を呪縛した。「自作農主義は『目的ではなく手段である』ということを何度となくみずからいいきかせているつもりなのだが、農地法行政に関係していると、いつのまにか、その自作農主義のとりこになっている自分に気づくことがしばしばであった。…ひとたび自作農主義と称されたとたん、自作農なるものが農民の理想像であり、自作農たることが政策の最終目標であるような錯覚がうまれてくるのである。」(中江淳一[1976日本の農業100号、農政調査委員会)農地法に関わる彼の後輩たちは、何の疑念もなく自作農主義を信じた。その農地法は戦前小作人解放を推進した社会主義的な思想に支持されている。

和田博雄、第2次農地改革の担当課長、小倉武一たちが描いた農地改革後の将来展望に、農地法は反するものとなった。「それ(農地改革)は日本近代の後半において小作立法や自作農創設の拡充に努めた当時の人々の夢が百パーセント以上実現したのである。しかし、それは次代の夢を育むものではなかった。企業的経営の開花の夢も協同経営への道の夢も持ち得なかったのである。実をいえば、そういう夢を抱いた個々人はあったにちがいないが、その夢の実現の道は農地改革によってむしろ閉ざされたのである。農地改革の直後にその成果の上に立って長期的展望の可能な農業経営体への道が拓かれてもよかった筈だと後世は考えるかもしれないが、当事者は成果の維持しか考えなかった。それは(個別の家族農家、個別の農民的土地所有、自家労働中心の農業経営主体という)三位一体の農民的土地所有の維持だった。それは農地法の制定によって制度化されたのである。農地法の考え方(中略)は、農地改革の成果たる農民的土地所有を発展させるのではなく、これを維持固定化しようとしたことであった。」(小倉[1987]『日本農業は活き残れるか』(中)122~124頁)


耕作者主義の崩壊

農地の転用規制が緩やかだったため、農地価格が高騰した。農林省は農地の売買による規模拡大をあきらめ、賃貸借による道を選択する。耕作者は所有者であるべきであるという自作農主義を修正し、借地による規模拡大を目指したのである。いつからか耕作者主義と言われるようになった。

自作農主義は概念としては明白である。耕作者が農地を所有する。では、耕作者主義とは何か?主語は「耕作者が」だが、自作農主義の「農地を所有する」に該当する部分が欠落している。述語がない文章は意味不明である。「耕作者が農地を耕作する」は意味をなさない。

「農地についての権利を有する」と述語を補ってみよう。さらに、「権利には、所有権に加え賃借権も含まれる」という注釈もつけてあげよう。しかし、戦前の小作人も「農地についての権利を有する」耕作者主義に該当する。小作人を否定した農地改革を維持しようとした農地法が、小作人を認めることになってしまう。戦前から耕作者主義だというのは極めて居心地が悪い。

「戦前の小作人は権利の弱い債権としての賃借権しか持っていなかった。今の物権的な借地権とは違う」と反論するかもしれない。しかし、1938年農地調整法が成立し、引き渡しを受けていれば農地が売買されても賃借権を主張でき、また信義則違反の場合を除き地主は解約や更新拒否はできないこととなり、農地の賃借権は物権並みに強化されていた。逆に、流動化を促進するため、今の賃借権の物権性は弱められている。

根本的な問題は、自作農主義も耕作者主義も自然人を予定していることである。自然人しかいない世界では、株式会社については、権利を有する者は株主、耕作者は従業員となり、等号関係が成立しないため、所有も賃借権も認められない。

しかし、農地法は2009年一般法人による農地の賃借も認めた。法人にまで対象を広げれば、権利を有する者も法人、耕作者も法人となり、耕作者主義となる。そうであれば賃借権だけでなく所有権を(株式会社を含む)一般法人に認めても耕作者主義に反しない。仮に自然人しか前提としないとすれば、2009年耕作者主義は崩壊したことになるので、この場合でも一般法人の農地所有に対して耕作者主義から反対することはできない。