コラム  エネルギー・環境  2021.01.26

脱炭素社会への船出 ~期待と不安の中で~

エネルギー・環境

1.  目標が明確になった

菅政権は、2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会を目指すことを宣言した。気候変動を巡る国際政治プロセスに呼応し、果断に打って出た。

 -ようやく日本も。遅ればせながら。

 -素晴らしい決断だ。新しい成長軌道に日本も乗り遅れてはならない。

 -日米、日EUの次の共同アジェンダである。いやいやむしろ日中協力を。

 -出来もしないことを何故軽々に言うのか。日本経済を衰退させるだけだ。

 -脱石油?脱石炭?あり得ない。化石燃料なしで社会は成り立たない。

 -風力?太陽光?蓄電?水素?どれだけコストがかかるのか。国民はそのうち悲鳴をあげる。

 -脱炭素なら原子力が欠かせない。政府は正直に国民を説得してほしい。

様々な声が寄せられてくる。実はどれも一面正しい。

エネルギーは国家の基幹戦略である。国際社会は無資源国日本の弱点を容赦なく突いてくる。過去の日本の歴史上の失敗も大きくそれが関与している。そして戦後の二度の石油ショック。技術力でそれを撥ね退けてきた。これからもそれができるだろうか。

とにかく目標は明確になった。排出ガス削減目標を巡る国際政治ゲームは、今回の目標設定によって終止符が打たれたと信じたい。これをどのように経済プロセスに落とし込んでいくのか。本来は経済プロセスあっての政治プロセスだが、気候変動問題はとかく欧州発の政治プロセスが先行しがちで、日本の主導権がなかなか発揮できない。産業界にとってはここが息苦しい。企業競争力を引き出せる「賢い政府」が求められる。


2. 30年間で本当に達成可能なのか

地球温暖化問題を巡る国際会議・国際交渉は、1990年代から本格化した。

199712月、京都。COP3京都議定書の採択により、2008~2012年の平均で1990年比日本▲6%、米国▲7%、EU▲8%の温室効果ガス排出削減が初めて数値目標化された。中国含む発展途上国には削減義務はない。この時はまだフロン削減に必死の時代。CO2はまだ±ゼロ削減、省エネ分が成長分をオフセットする程度の話だった。それでも企業のエネルギー効率化への投資は相当のものであった。業務オフィスや家庭は排出量を増加させ続けた。

10年後。2007年6月、G8ハイリゲンダムサミットにおいて、日本は「2050年半減目標」(クールアース50)を「全ての主要排出国が参加する枠組みの下で」実現することを提案。翌2008年7月、G8北海道洞爺湖サミットで合意された。日本が温暖化問題を主導した唯一の瞬間である。そして、翌2009年、日本の中間目標として、2020年▲15%(2005年比)が決定された。官民が議論に議論を重ねた各論付きの目標であった。

ところが翌年、政権交代に伴い、2020年の削減目標が▲30%(2005年比)と倍に引き上げられることとなった。この時の前提は、電源構成に占める原子力の比率を50%に引き上げることが裏打ちであった。いくら高効率安定電源とはいえ、特定の電源に50%を依存するとの目標は、結果としては誤りであった。案の定、福島第一原子力発電所の事故により、この計画は挫折。抜本的見直しを迫られることとなる。

日本のエネルギー政策迷走などお構いなしに、世界の気候変動を巡る危機意識は加速度的に高まっていく。連続する異常気象は、その因果関係も十分に検証されぬまま、市民運動として広がり、欧米における訴訟文化へと発展していく。オランダ政府はCO2排出削減を実行する義務を負う、との判決に直面し、ロイヤルダッチシェルなどのオイルメジャーズも過去の地球へのダメージに対する賠償といった不可解な訴訟リスクに晒されている。これが現実である。

2015年COP21において、パリ協定を採択。これを受けて、日本政府は、中期目標として2030年▲26%(2013年比)、長期目標として2050年▲80%を閣議決定した。▲80%と今般宣言された▲100%は大差ないように見えるが、この差はとんでもなく大きい。おおよそ化石燃料からの転換が相当に困難な分野、例えば航空機燃料、製鉄プロセス、それに最低限の火力発電の確保などのオプションを残す必要があるからである。この時点での日本政府の構想は、21世紀内にカーボンニュートラルを達成するというものである。目標に向けた時系列の設定が決定的に重要だ。要はパリ協定で設定された人類全体の目標を達成していくプロセスを日本として如何に主導するか。これこそが本質なのである。

エネルギー分野における革新的イノベーション技術の実用化まで10年、市場飽和まで30年、計40年~50年程度を要するのが過去の経験則である。今からだと2060年になる。中国は、狙いが国政政治のポジション取りとはいえ、実に賢い判断をした。

地球温暖化論争が本格化した1990年と目標年の2050年。今は、丁度その中間点にあたる。既に中間点である。残り30年での達成が不可能とは言わない。しかし、かなり困難だとは言わざるを得ない。企業だけではなく、国民全員の一致した理解と協力、すなわち全ての国民が負担を覚悟することなしには実現はできない。企業や国民が分断されたり、どこかで気持ちが折れたら実現は無理である。どこかで聞いた台詞である。

3.  「環境と経済の好循環」‐30年間の国民コスト配分

どこから着手したらよいのか。

地球温暖化問題は全人類の問題だ。同時に、新たな国家間競争の問題でもある。間違いなくコストがかかる。エネルギーコストは間違いなく上昇する。エネルギー価格が上昇して競争に耐えられなくなれば企業は日本から逃げ出す。自動車もエレクトロニクスも、それを支える鉄鋼や化学も、もう日本では作らなくなる。それが外圧であるとすれば、まさにABCD包囲網だ。知恵と技術で跳ね返すしかない。

他方、ESG投資の加速化とファイナンス機関によるカーボン排出企業回避から、化石燃料にしがみつく企業もまた市場から淘汰されるリスクを負う。もうファイナンスは付かないよ、と投資家が煽る。炭素ゼロの世界はバラ色の世界だよ、と某経済紙や産業系専門誌が煽る。企業による一連の脱炭素宣言は当面の株価対策、IR戦略には有効であるが、技術に裏打ちされた具体的行動計画にはなっていない。経営者たちは、外部不経済を内部化するため30年かけて持続可能な道を選択するか、刹那的にゼロエミッションを宣言してやがて揺り戻すのを待つのか。投資家や欧米の金融機関はブームを作るのは上手いが逃げ足も速い。企業の持続性までは保証しない。持続可能なルールは、今度こそ日本主導で作らなければならない。

目的は「環境と経済の好循環」のはずである。これが大前提である。いかに新しい投資が生み出されても、エネルギーという基幹コストが止めどもなく上昇すれば、産業構造転換どころか製造業の国外大流出という結果に終わる。日本人が金融とサービスだけで繁栄するのならそれでもいい。私はそういう産業構造は好きではない。「成長の持続性」とは、コスト、レント、リスクの時系列的最適化である。当然、政府の役割は大きい。そして、30年に亘り、脱炭素に向けた国民的意思が貫徹できるかが成否を決める。30年間の国民的闘いである。電力会社や石油会社だけの闘いではない。政府は、国家的に雇用を維持しながら、国民コストを30年に配分する「配分政策」を周到に練らなければならない。

革新技術への国家的投資、実証・実用化への補助金、国際標準化、脱カーボンを支える社会インフラ整備、規制改革、公的ファイナンス、カーボンプライシング。

政府の仕事はいろいろある。しかし手順を誤ってはならない。短期的な政治的アピールを焦ってはならない。まずは、30年間の国民的取り組みの基本原則、官民の役割分担、技術進歩を後押しする基本ルールの設定、それを推進する強力な行政機構の設置が必要である。

4.  炭素排出者を悪者にするな。彼らこそ主役。

今回のCO2排出削減目標の宣言に対し、殆ど政府と調整を行って来なかった経済界が、もちろん全てではないが、批判をせず不満も漏らさず、概ね賞賛の声をあげた現象は過去に記憶がない。それだけESGが企業評価の中枢に定着していることの証なのであろうか。それとも経営者たちは自信に漲っているのか、はたまた意味が分かっていないのか。

本来、企業評価の中枢はコアビジネスの持続性と発展性であり、結果として株主利益の最大化である。出来もしない技術開発への投資は時間が経てば見透かされる。他方でAIの活用により不可能であったものを短期間で可能にする領域も沢山ある。AIはまた、全体最適と部分最適の調合をも可能にする。こうしたことも含め、ブームに踊らされることなく、技術者や現場の確かな眼力による長期の技術投資が求められる。投資家や金融機関も最後はそこを見極めるはずだ。

30年の闘いを設計するに当たり、まず最も重要なルールは、「カーボンの多量排出者を悪者扱いしてはならない」ということである。規制やカーボンプライシングはよほど慎重に設計しなければならない。

かつて深刻だった日本の公害問題。硫黄酸化物、窒素酸化物、カドミウム、ダイオキシンなどによる大気汚染、水質・土壌汚染などのいわゆる公害問題は、明らかに汚染者負担による解決を図るべき問題であった。科学的根拠に基づく基準値の導入により排出規制を徹底し、企業に設備投資を迫り、健康被害への補償も求めた。いわば汚染という「悪」の排除であった。ところがカーボンの場合は、元来空気中に存在する分子の増加、空気の組成の変化であり、いわゆる公害とは性格が異なる。もちろん地球環境全体を脅かすとの意味では人類益の侵害ではあるが、人間社会総体が原因者であって、誰が悪者なのかというアプローチでは問題は正しく解決されない。

もとより、化石燃料はサルを人間に変えた。人類の文明を築き上げた。エネルギーは不滅だが、大いなる自然のサイクルの中で形を変える。その変容過程における結合エネルギーの解放、すなわち燃焼を利用することで、人類は文明を切り開いた。火を覚え、蒸気を覚えた。分子の結合エネルギーの解放である。その立役者が石炭であり、石油である。「20世紀は石油の世紀」「石油の一滴は血の一滴」などと云われる所以である。ちなみに、その後人類は、その数十万倍のエネルギーを取り出せる原子レベルの結合の解放を覚えた。これについては後刻詳述する。

程度の差こそあれ、人類は全体で化石燃料の利便性を謳歌してきた。エネルギー供給者は人類文明のヒーローである。ところが化石燃料の燃焼による温室効果ガスが地球の環境に悪影響を及ぼすことが判ってきた。もちろん反対意見も多いが。

そのヒーローたちを、一転「悪」と位置付けるのではなく、次代の脱炭素社会における新しいヒーローへと変貌させること。使う道具と立回りの違う、新しい主役へと生まれ変わる支援をすることこそ、国民そして政府の基本アドレスであるべきだ。私はそのように確信している。


5.  長い闘い‐5年毎の周到なレビューを

30年間の技術進歩とその結果生まれる最適ポートフォリオを完全に見通すのは不可能である。改良型技術に軸足を置き、これまでヒーローたちが築き上げてきた高効率なエネルギー供給網や技術・インフラ蓄積を前提とした暫時前進方式で行くか、それとも、多少のサンクコストを覚悟しながら、革新的イノベーションに夢を託し、既存インフラ刷新型で臨むのか。おそらく両方のルートが必要であろうし、分野毎にも異なるはずだ。そして、規制やカーボンプライシングをいかなる思想の下で導入するのか、しないのか。まずは、分野毎の詳細設計に入る前に、そもそも官民の役割分担をどう設定するのか、国家全体としての基本アドレス、基本設計が必要である。そのうえで、分野毎、セクター毎の詳細設計にとりかかるべきである。

CCSのリスクまで民間企業に委ねるのか。水素供給拠点は集中型になるのか分散型になるのか。浮体風力発電用のメンテナンスポートはどこに誰が作るのか、100%の水素還元型製鉄プロセスを真剣に追求するのか。スマートシティーなど分散型エネルギー供給は誰が旗振り役になるのか。膨大な各論の積み上げには、行政機構の大部分を巻き込むことになる。まずは大きな基本原則を固めたい。

もちろん民間セクターでやれる取り組みはどんどん進めたら良い。ただし、いずれは政府が策定する全体最適との調整を余儀なくされる。先行的取り組みは、分野横断的基本設計と官民分担ルールを設定する上での指標にもなり得る。個々の企業による独自戦略と国による規格標準化やインフラ投資の判断がしばしば鶏卵の関係となることは致し方ないが、ここは30年の経済社会構造改革である。技術進歩とそれを支えるインフラ作りの進め方については、官民でじっくりと時間をかけて方向性を定めた方がいい。序盤で陣形を整えないと取り返しのつかないことになる。その意味で、30年の闘いの最初の5年間は、

  1. 革新的技術開発への投資ルールの策定
  2. 実用化製品の普及のためのインフラ整備ルールの策定
  3. 分野毎の投資5か年計画及びシナリオ逸脱時のレビュー原則の策定
  4. 官民人材から構成される脱炭素社会推進母体(行政組織)の設置
  5. 脱炭素社会推進のための国と地方自治体のネットワークづくり

の5点に集中すべきである。

以上の基本原則の設定、基本組織の設営を前提としながら、分野別の詳細設計の進捗と失敗を常にレビューし、5年ごとに計画を見直し、練り直す仕組みを整えるべきだ。

現行の3年ごとに見直しが注目されるエネルギー基本計画は、電源ポートフォリオだけが注目を集めがちだが、いかに長期計画とはいえコストを無視した画餅は全く意味を持たない。経済性なきポートフォリオ、産業空洞化を助長し雇用を喪失させるエネルギーバランスは意味をなさない。だからと言って、一度設定した長期計画を「やはり出来そうもありません」といって朝令暮改で変更されたのでは民間企業はたまらないし、当面の3年間の工程表のみを書き換えるような作業も大いなる無駄である。

最初の5年間の詳細設計を緻密に行い、次の5年、10年、そして30年を見据えて、プランB、プランCを準備し、常に複線的シナリオを描きながら、最適ルートで粘り強くゴールに辿り着く。そうした体制が不可欠である。

6.  賢い政府こそが必要

脱炭素への道のりを妨げる要因は、「コスト」である。新しい挑戦が多くの雇用を生むことは確かである。産業構造転換が必要なのも事実である。しかしエネルギーコスト高は間違いなく産業にも国民生活にも不利である。産業空洞化が顕著になり、雇用が目に見えて失われれば、たちどころに民意は変わる。脱炭素くそくらえ!となる。あまりに性急な、あるいは誤ったカーボンプライシングは、脱炭素への誘導効果ではなくコスト高だけが企業、国民にのしかかる。

繰り返すが、30年間の挑戦は、脱炭素に向けた国民の意思が貫徹できる戦略がなければ成功しない。国民に脱炭素疲れ、逆噴射が起きるようなことになれば、失敗に終わる。政府は、30年間の国民コストの配分政策を、脱炭素自体が生み出す成長の果実を活用しながら進めなければならない。かなり緻密な分析を要する。

「グリーンは成長のエンジンだ!」といった総論で片づけられるほど単純ではない。それが出来ればとっくにやっている。だからこそ魅力ある挑戦なのだ。

この野心的な仕事が、環境省と経済産業省、あるいは地方自治体とバラバラの体制で果たして遂行可能だろうか。最近は連携が上手く行っているのは事実である。

しかし、両者が追求する価値は根源的には異なるし、かつ、連携の良し悪しはすぐれて人的関係が作用する。この挑戦は社会構造改革でもあり、業務・家庭部門、運輸部門に広く及ぶことも視野に入れなければならない。地方自治体の役割が益々大きくなることも理解しなければならない。

行政組織間の対立は必ず政治的対立につながる。政治的対立軸になると、国民が分断され、30年間に亘る国民一体となった闘いなど到底望めまい。継続性を無視した政治の一声で目標と政策がアップエンドするような光景は二度と見たくない。

脱炭素社会を本気で目指すならば、継続性のある「賢い政府」の存在が不可欠である。環境省と資源エネルギー庁を統合するといった単純な話でもない。「環境と経済の好循環」に向けて国と地方が連携し、価値観を統合し、そして官民の人材がリボルビングドアのように出入りできる強力な専門集団が必要であると考える。具体的には後刻詳論する。