9月初旬、安倍晋三首相の辞任発表を受け、菅義偉内閣への流れが固まった頃、米国の外交専門誌に驚くべき論文が掲載された。「米国は台湾防衛意図を明確化せよ」と論ずる小論の著者は米外交問題評議会会長で元国務省政策企画局長のR・ハース氏だった。従来米国の台湾政策は、中国の台湾侵攻への対応を明確にしない「戦略的曖昧さ」だった。1972年のニクソン訪中以来、米国はこの曖昧さにより中国の台湾侵攻と台湾の独立宣言を抑止し、東アジアの現状を維持してきた。ところがハース論文はこの伝統的「曖昧戦略」を百八十度転換し、米国の台湾有事直接軍事介入意図を明確にすべし、と主張する。当然米国の東アジア専門家たちが侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論を始めた。されば、菅内閣が誕生したばかりの日本も頭の体操だけはしておいた方がよい。今回は米国国内の関連議論を紹介しつつ、日本の対応を考える。
●戦略的曖昧さの限界
ハースの論旨は明快だ。「曖昧戦略では軍事的に強大化した中国を抑止できない」「台湾防衛意図の明確化という方針変更は『一つの中国』政策の枠内で可能」「むしろ米中関係を強化する」と主張する。
●台湾関係法の限界
1979年の米国の台湾関係法は「台湾の将来の非平和的決定を脅威」とみなし「武器供与」も規定するが、「米国の台湾防衛義務」までは言及しない。ハース氏は「中国の軍事的優位は明らかで、米国が中国の行動を待って態度を決めるのでは遅すぎる」と論破する。
●他の同盟国への悪影響
ハース氏は、2021年にも始まる「台湾再統一」の際、万一米国が台湾を守らなければ、日韓は米国に頼れないと判断、対中接近か、核武装により、次の戦争の原因になる。キッシンジャー元国務長官は偉大だが、「曖昧戦略」は地域の現状維持に資(し)さない、と論ずる。他方、ハース氏の議論には有力な反論がある。例えば、曖昧戦略放棄は1972年の米中共同声明の前提を否定するので、中国は台湾問題の平和的解決の約束を反故(ほご)にし、台湾の安全はむしろ害される。
●戦略的明確さにも限界
米国が防衛しなければ同盟国の信頼は失われるが、他方彼らも台湾防衛義務まで負う気はないので、戦略的曖昧さは同盟国の利益でもある。
●曖昧さによる抑止は可能
これまでも抑止は働いてきた。仮に戦略転換しても、米中戦争は誰も望んでおらず、米国は実行不可能な「レッドライン」の罠(わな)に嵌(はま)るだけだ。もうこのくらいにしよう。この議論、米国では今後も続くはずだ。では、日本にとっての政策的意味は何か。最後にこの点を考えてみよう。
●台湾解放が抑止された理由
台湾問題は中国共産党の核心的利益であり、一度武力解放に着手すれば絶対に失敗できない。されば、成功する確信なしに中国がリスクを冒(おか)す可能性は高くないはずだ。
●台湾有事は日本有事
台湾を武力解放するなら、台湾を包囲する軍事作戦は不可避だが、日本の与那国島は台湾から111キロしか離れていない。中国が日本の領空領海を侵せば日本有事となる。
●日本は思考停止
1972年以降、日本が台湾有事の際の軍事作戦を真剣に考えた形跡はない。今も、事実上の思考停止だろう。しかし、台湾問題が平和的に解決される保証はない。米国で「明確か曖昧か」論争が深まれば、いずれ具体的政策議論も始まるだろう。それまでの間、少なくとも頭の体操だけはやっておく必要がある。