WTO(世界貿易機関)のアゼベド事務局長が任期半ばで突然辞任を表明した。その背景には、WTOの機能不全がある。
WTOには、二つの柱がある。
一つは加盟国で交渉を行うことで、時代の変化に対応した新しい貿易のルールを作ることだ。これは立法的な機能だと言える。
もう一つは、加盟国間で貿易を巡る紛争が生じた場合、問題となった措置がWTOのルールにあっているかどうかを判断し、違反している国に対して是正を求めるという紛争処理手続きだ。これはいわば裁判や司法的な機能である。
この両者とも機能がストップしている。
変化に応じたルールが作れない
ガットはモノの貿易について規律していた。1986年に始まり1993年に妥結したガット・ウルグアイ・ラウンド交渉は、ルールが不十分だった農業や繊維について規律を強化する一方、それまでガットがカバーしてこなかったサービスや知的財産権についても新しいルールを作った。こうしてできたのがWTOである。
WTOのもとで、2001年さらなる自由化を目指したドーハ・ラウンド交渉が開始された。しかし、先進国と途上国との対立によって、2011年この交渉は事実上の停止状態となった。
その後小さな前進はあったものの、ウルグアイ・ラウンド交渉で合意されたWTOの諸協定に変更はないと言ってよい。27年前に作られたルールが今でも変更なく適用されている。モノについての関税引下げやサービス分野の自由化も進まないままだし、電子商取引など新しい貿易の形態に適合したルールが作れなくなっている。
対立する先進国と途上国
先進国と途上国の利益が対立するのは、ガットの時代もあった。ウルグアイ・ラウンド交渉では交渉を立ち上げること自体、競争力のないサービス分野の自由化を求められることを恐れたブラジルやインドが反対した。また、先進国も足並みはそろわなかった。EUは、そのコーナーストーンである農業を交渉の対象に含めるのに消極的だった。このため、アメリカがウルグアイ・ラウンド交渉を提案してから、4年後にようやく交渉は開始された。
アメリカがウルグアイ・ラウンド交渉を開始しようとした大きな要因は、EUの農業政策、特に過剰農産物処理のための補助金付き輸出によって、国際市場価格が低迷していることに規制を加えたかったことである。ガット時代の不十分な紛争処理手続きでは、アメリカがEUに勝訴した場合でも、それを実施することは困難だった。
ウルグアイ・ラウンド交渉全体の行方を左右したのは、アメリカとEU間の農業問題だったと言って過言ではない。1986年に開始された交渉は、農業問題にハイジャックされ、なかなか進展しなかった。当時ジュネーブでは、農業で合意できれば、サービスなど残りの交渉は1日で終了できるとまで言われていた。それほど農業交渉が重要だったのである。ようやく1992年末アメリカとEUが農業補助金について合意したことにより、翌年交渉は妥結した。
ドーハ・ラウンド交渉においても、アメリカとEUは農業問題について合意すれば、全体の交渉が妥結するはずだと考えた。交渉開始後2年を経過した2003年9月のカンクン閣僚会議の直前、両国は100%以上の農業関税は認めないとする上限関税率に合意した。しかし、これに対して、ブラジル、中国やインドを中心とした途上国は、アメリカやEUも含めた先進国の農業補助金の大幅削減を要求した。両者は激しく対立し、カンクン閣僚会議は合意文書をまとめられず、決裂した。
ウルグアイ・ラウンド交渉では、アメリカ、EU、日本およびカナダ(農業についてはカナダに代わりオーストラリア)の4カ国で交渉を行い、それで合意したものを、7カ国、13カ国、21カ国と参加国を広げていって、最終合意に至るという意思決定が行われた。実際には、ウルグアイ・ラウンド交渉でも100を超える国が参加したが、かなりの国は交渉に関与していたとは言えなかった。
ドーハ・ラウンド交渉では、少数の国が集まって合意に至るという、このような交渉方法に対しても、途上国から反対された。しかし、たくさんの国が集まる会合で意思決定を行うことは民主的ではあるが、合意形成を行うことは容易ではなかった。
ドーハ・ラウンド交渉の開始と同時に、中国がWTOに加盟した。アメリカやEUも、中国が経済大国に成長するなかで、中国が加わった途上国の意見に押されるようになった。中国の加盟によって、先進国と途上国のパワーバランスに大きな変化が生じたのである。
こうして、ドーハ・ラウンド交渉は漂流した。今のWTOで新しいルールを作ることは、ほとんど不可能となっている。
WTOの裁判的な機能も停止
WTOの紛争処理手続きは、ガット時代に比べ格段に強化された。アメリカはEUの輸出補助金を是正できなかったことから、ウルグアイ・ラウンド交渉で紛争処理手続きの改善に努めたからである。
ガット時代は一国でも反対するとパネル(裁判のようなもの)の判断はガット加盟国によって採択されないという問題があった。このため、一国でも賛成すると採択されるという仕組みに変更した。勝訴した国は当然賛成するので、間違いなく採択されることになる。さらに、パネルの上に上級委員会を加え、二審制にした。
これによって、WTOの紛争処理手続きは、新しいルールが作られない中でも、しっかり機能してきた。WTO諸協定を解釈する国際経済法学者は、交渉は進まないが、紛争処理手続きは着実に実績を上げていると誇らしげに語っていた。
しかし、ルールが古いままなので、解釈によって、ルールが作られないことを補おうとする動きが見られるようになった。裁判所が法律を創造するような解釈を行ったのである。また、法律家による協定の文言に従った解釈と、交渉に当たった国の意図が、一致しないような場合も見られるようになった。交渉者が各国の対立する利害を調整して作った、政治的、妥協的な文言が、法律家によって交渉当事者の意図とは異なるように解釈されるのは、ある程度仕方がないことかもしれない。
アメリカは、こうした判断によって思ったような結論が出されないことに、いらだつようになった。また、最終的な判断が出されるまで時間がかかる過ぎることにもアメリカは不満をもった。こうして内容と手続きの両面で紛争処理手続きに批判的となったアメリカは、上級委員会の委員の任命を拒むようになった。現在、上級委員会には少なくとも3名の委員が必要なのに委員は1名であり、事実上裁判的な機能も停止してしまっている。日本で言うと、地方裁判所はあるのに、上級審である高裁や最高裁がないという状態である。
つまり、新しいルールが作れないので、紛争処理手続きを担当する上級委員会ができる限り穴埋めをしようとしたのだが、それも嫌われてしまった結果、WTO全体が機能不全・停止に陥ってしまっているのだ。
なお、6月18日韓国政府は、去年7月から韓国向けの半導体の原材料など3品目の輸出管理を厳しくした日本政府の措置がWTO協定に違反しているとして、パネルの設置を求めてWTOに提訴した。日本の措置が安全保障上の観点からガットルールの例外として認められるかどうかが争われるだろうが、これまでの判例からすれば、韓国の勝算は少ないと思われる。にもかかわらず、WTOに提訴したのは、上級委員会が開けないので、紛争処理手続きの裁定が確定しない(仮にパネルで勝訴しても執行できないし、負けても上訴できないままとなる)ことを見越したものだろう。紛争処理手続きが機能停止していることを前提とした、国内向けの政治的なアピールではないかと思われる。
TPPによる新ルール創設の試み
新しいルールはWTOでは作れないので、これに代わってTPPなどの大型の自由貿易協定が作られるようになった。
オバマ政権のアメリカはTPP交渉を立ち上げた。TPPは中国を排除する仕組みだったと世間では受け止められているが、オバマ政権の意図は逆だった。
中国のいないTPPという場でレベルの高いアジア太平洋地域の通商や投資のルールを作る。特に、オバマ政権が重視したのは、中国の国有企業に対する規律だった。アメリカの企業が中国に進出しても、補助金や規制によって保護されている国有企業とは対等には競争できない。現在ブレグジット交渉でEUがイギリスに求めている共通の土俵(the level playing field)と同じ趣旨の考えを、アメリカ企業と中国国有企業との間で実現しようとしたのだ。
中国はTPP交渉に参加していないが、幸い、TPP参加国の中に、社会主義国でかつ国有企業を多く持つベトナムがいた。アメリカはベトナムを仮想中国として、国有企業についての規律を交渉した。
TPPのような大きな自由貿易協定については、参加しないと広大な自由貿易圏から排除されるという不利益を受けるので、どんどん参加国が増える。TPP妥結と同時に、タイ、台湾、韓国、フィリピン、インドネシアなどが参加を表明した。いずれ中国もTPPに参加せざるをえなくなる。そのときに中国に国有企業を含めた新しいTPPのルールを適用しようとしたのだ。オバマ政権にとって、TPPは中国を排除するものではなく、新しい通商ルールに中国を取り込むための仕組みだった。
これを理解しないトランプ大統領はTPPから脱退した。しかし、偽造品の取引防止など知的財産権の保護、投資に際しての技術移転要求の禁止、国有企業と海外企業との間の同一の競争条件の確保という、トランプ政権が米中貿易戦争で中国に要求している項目は、すべてTPPに規定されている。トランプ政権の間は実現できないだろうが、アメリカにとって望ましいのは、TPPに復帰してTPPが対象とする経済・貿易圏を拡大したうえで、中国をTPPへ参加させることである。
中国のTPPへの参加意欲
アメリカがTPPから離れているうちに、逆に、中国がTPPに関心を持つようになっている。最近、李首相のTPP参加に向けた積極的な発言が注目されているが、かなり前から、中国政府によるTPP加盟国への働きかけが行われているようだ。
中国としては、アメリカへの対抗意識もある。ASEANに日中韓やインド、オーストラリア、ニュージーランドを加えたRCEP交渉で、離脱を示唆しているインドを除いても、中国が妥結を急いでいるのは、このためだ。保護貿易主義をとるアメリカに対し、中国こそが自由貿易を推進しているのだと世界にアピールしたいという意図もあるだろう。中国の中には、TPP参加によって国有企業改革を進めたいとする人たちもいる。外圧を国内改革に利用したいというのだ。
しかし、今中国がアメリカ不在のTPPに参加する場合には、投資や国有企業などのルールについて大幅な適用除外が中国から要求されるだろう。すでに、ベトナムなどには多くの例外を認めている。これが認められる場合には、中国にはTPPの規律はほとんど課されなくなり、オバマ政権が考えたことと逆の事態になってしまうおそれがある。
アメリカの覚醒が必要
RCEP交渉については、日本としては、中国に加えてインドを加盟国としてバランスを取りたい。RCEPで中国が支配的な力を発揮するのを阻止したいからだ。
そもそもASEANプラス日中韓の3カ国を主張した中国に対して、インドやオーストラリアなどを入れたASEANプラス6の枠組みを主張したのは、日本だった。TPP交渉が進展するに伴い、アメリカ主導のTPPから排除されることを恐れた中国が日本に譲歩してRCEP交渉が始まったという経緯がある。RCEPが実現するとTPPに対抗できるからである。
しかし、現状では、中国との間で大幅な貿易赤字を抱え、関税削減などの自由化は困難だとするインドを翻意させることは容易ではなく、日本が中国に抗することには限界がある。インド抜きのRCEPが実現する可能性が高い。
中国がTPP参加を表明すると、日本政府は拒否しにくいだろう。ただし、TPPの主要なメンバーであるオーストラリアが新型コロナウイルスの発生源について独立調査を呼び掛けたことなどを受けて、中国はオーストラリア産の牛肉については輸入を制限、大麦については追加関税を課したりして、両国の関係が悪化している。オーストラリアはインドとの連携を強めている。このため、ただちに、中国がTPPへの加入交渉を行うということにはならないだろう。
また、加入交渉開始後も、既加盟国は、新規加盟を希望する国に対してTPPの規律に沿った措置を要求することができる。中国のWTO加盟交渉は15年も要した。中国の国内措置や貿易措置が、ガットやWTOの要求する水準とかけ離れていたからである。これほどではないにしても、投資、知的財産権や国有企業などの分野で中国がTPPの規律に国内措置を合致させるには、相当な時間がかかるだろう。日本やオーストラリアだけでは力不足かもしれないが、アメリカがTPP加盟国であれば、中国に対してTPPに合致した措置を取るよう、厳しい要求を行うだろう。
では、その可能性はあるのだろうか? 今年11月のアメリカ大統領選で、オバマ政権の副大統領だったバイデン民主党候補が勝利するようだと、中国の動きに刺激されて、アメリカがTPPに復帰する可能性も高まると考えられる。中国が入るRCEPが成立し、さらにTPPにも中国が加入するとなれば、アジア太平洋地域で中国のプレゼンスが高まり、アメリカの存在感は希薄となる。オバマ政権は成長著しいこの地域に軸足をシフトさせると主張していた。中国のプレゼンスの高まりという事態は、アメリカにとっても望ましいことではない。アメリカと同盟関係にある日本の外務省はどう対応するだろうか?
EUから脱退したイギリスもTPP参加を検討している。インドが不満を持っているのも、中国の補助金や国有企業に対してである。21世紀の新しい通商ルールを定めることを標榜したTPPがWTOを補完するものとして、再び注目を集めるようになるかもしれない。
アメリカが復帰し、将来的には中国も加入するようになると、TPPのルールがWTOのルールとして採択されるようになるだろう。WTOの機能不全を克服するためのB案である。