メディア掲載  外交・安全保障  2020.05.19

「不世出の外交官」岡本氏しのぶ

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2020年5月14日)に掲載
 あの岡本行夫が逝ったなんて今でも信じられない。冷戦後の安保政策を立案・実行した先輩は少なくないが、彼の活躍は群を抜いていた。筆者を含め外務省には今も岡本氏を「親分」と慕うグループがいるが、彼の魅力は「人情味ある親分肌」だけではない。岡本氏の真骨頂は発想力、行動力、説得力の3つを兼ね備えながら、その実、繊細な感受性も持ち合わせていたことだ。岡本氏のような外交官はもう二度と現れないだろう。

 初めて会ったのは1980年のカイロ。筆者がアラビア語研修生で岡本氏は指導官だった。最初は怖い先輩かと思ったが、数年後筆者はバグダッド勤務、その後ワシントンで彼と再会し考えを変えた。「君の公電は毎日読んでるぞ」と言われ、戦時下必死で電報を書いていた筆者は報われた思いがした。爾来岡本氏は筆者の兄貴分どころか、師と仰ぐ存在になった。外務省には27年在籍したが、岡本氏と直接仕事ができたのは91年の湾岸戦争前後1回だけだった。あれから約30年、今や伝説となった活躍の一部を紹介しよう。

 当時の日本は日米同盟について冷戦終結後最大の危機に直面していた。ソ連という共通の敵を失い、日本が米国にとり当然の同盟国ではなくなる恐れがあったのだ。90年、イラクのフセイン大統領が突如クウェートに侵攻する。自衛隊を派遣できない日本は思考停止に陥り、同盟国としての真価が問われた。その際八面六臂の活躍をしたのが岡本北米1課長である。

 岡本氏の発想は役人を超えていた。人を出せないなら、せめて物資を送ろう。金だけでは駄目だ。砂漠に展開する軍隊には何が必要か。内々陸上自衛隊の知恵を借りて調達物資リストを作り提示した。当時米側が唯一評価した日本の湾岸貢献策だった。

 行動力は圧巻だった。数日後、岡本氏は通産省(当時)を訪れる。物資調達に同省の協力を求め、何と全面的協力が得られた。GPS付きスマホなどなかった当時の岡本氏は神出鬼没で捕まらない。連日霞が関、永田町、大手町を走り回っていたという。

 最後は説得力だ。800台の4WDをサウジアラビアに送る輸送船が船員たちの反対で出港できなくなった。普通なら万事休すだ。岡本氏が向かった先は全日本海員組合の本部。長時間の説得の末、先方は「北米1課長に言われたら協力するしかない」と翌朝未明の出港を認めてくれた。

 組合幹部の英断も偉大だが、それを引き出した岡本氏の説得力も出色だ。国益という大義を念頭に朝から晩まで関係者を精力的に回るからこそ多くの人を説得できたのだろう。岡本氏の行動の多くは当時外務省上層部や官邸の了承を得ていない。こうした発想力と行動力と説得力が岡本行夫の真の魅力だったのだ。

 輸送船出港前の深夜に突然岡本氏から連絡が来た。「辞表を書くから来い」という。岡本氏は常に「男が惚れる」男だった。仕事のスタイルは外務省退職後も変わらなかった。橋本・小泉両内閣で首相補佐官を務めたが、元役人の矜持を保ち、決してイエスマンではなかった。今の官僚にあんな芸当は無理だろう。

 日米安保、沖縄、イラク、中国、韓国、歴史問題など、岡本氏の関心が尽きることはなかった。パンデミック後の世界についても、様々な思いがあったに違いない。まだまだ彼に聞きたいことは山ほどある。

 その岡本氏が新型コロナウイルス感染の犠牲になってしまうなんて。あまりにも早い旅立ちだ。謹んでご冥福をお祈りしたい。合掌。