メディア掲載  外交・安全保障  2020.04.28

活動再開は「急がば回れ」

産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2020年4月23日)に掲載

 「この生活は1、2年続きそうね」と妻がつぶやいた。感染症医でも経済学者でもない筆者は、無責任なことは言えない。でも、緊急事態宣言発表から約2週間たった今、誰も認めたくない「不都合な真実」が徐々に明らかになり始めたようだ。

 最初の不都合な真実は「ウイルスを消滅させ、終息させるか、全員がウイルスにかかり病気になるか、のどちらかしか解はない」という横浜市大・佐藤彰洋特任教授の卓見だ。人類の歴史は感染症との戦いでもある。ウイルスや細菌は宿主が死ねば生き残れない。新型ウイルスは感染力は強いが、致死性が低いので手ごわい。ワクチン等特効薬ができるまでは「生きるか死ぬか」の戦いが長期間続くのだろう。ここまでは分かる。

 第2の真実は「今は経済活動を全面的に再開するときではない」ということ。ワクチンがない現在は人と人が物理的距離を置き感染を回避するしかない。日本でもいずれ議論になるだろうが、医学的には「経済活動を今再開すれば、さらなる感染が始まり無謀」ということだろう

 だが、それでは政治が持たない。米トランプ政権は当初5月1日に外出自粛令を解き「経済活動を再開する」とうそぶいていたが、先週、(1)14日間続けて新規感染数が減少し(2)医療従事者の抗体検査が可能な州は3段階で規制を緩和することを州知事の判断で認める指針を示した。一日でも早く経済を元に戻したいトランプ政権の「前のめり姿勢」が透けてみえる。

 しかし、これには有力な反論もある。米保守系シンクタンクAEIの報告書ですら、医療専門家が経済活動再開の条件として、(1)各州医療機関が患者受け入れ可能なこと(2)症状のある全員の検査実施(3)感染者モニタリング実施(4)最低14日間の感染者減少の4つを挙げた。もちろん、これには「経済にはスピードも大事」との反論もあろう。

 最後の真実は「経済再開は早ければよいわけではない」ということ。この点でも米国にはマサチューセッツ工科大学教授など経済専門家の研究がある。1918年のスペイン風邪流行時の米国ミネソタ州でミネアポリスとセントポールという2つの隣町を調査したら、外出規制などを116日続けた前者の死亡率と規制廃止後の失業率がいずれも、規制を28日で止めた後者より少なかったという。要するに、医療対策に加え、学校休業・検疫強化など公衆衛生対策を十分やった方が、その後の経済活動回復も早いということだ。トランプ政権には耳の痛い話だが、この点は過早(かそう)に経済活動再開を決めた中国も同様だろう。

 パンデミックの悪影響は人命や経済利益の損失だけではない。例えば、14世紀のペスト(黒死病)で人口の3分の1を失った欧州社会は大打撃を受けた。W・H・マクニールの名著『疫病と世界史』によれば、ペストにより「日常生活上の決まりや習慣的な自制は崩壊」し、「各地方のパニックはしばしば異様な行動」を引き起こし、鞭打ち苦行者の集団自殺やユダヤ人襲撃が多発したという。21世紀の人類にこうした悲劇が起きないという保証はないのだ。

 妻のつぶやきに戻ろう。今の筆者ならこう答える。医学・文化的には厳しい規制を続けることが望ましく、政治・経済的には早期の規制緩和が望ましい。では、どちらが正しいのか。「おおかみ少年」をやる気はないが、政治的には望ましい選択である規制緩和が過早となれば国民の死亡率と失業率が高まる恐れがある。要は「急がば回れ」なのだろう。