メディア掲載  グローバルエコノミー  2020.03.31

英国の対EU交渉力は実はこんなに強い:漁業、自動車、農業......。EUは傲慢な交渉姿勢を改め、英国に譲歩していくしかない

論座に掲載(2020年3月11日付)

 2021年以降のイギリスとEUの関係を決める交渉が開始された。中心はモノ・サービスの貿易や投資の保護などに関する自由貿易協定交渉だが、イギリスの経済水域でのEU諸国の漁獲などの交渉も含まれている。


ジョンソン首相の瀬戸際戦術なのか?

 ジョンソン首相をはじめとするイギリス政府は今年(2020年)中にこの交渉をまとめるとし、EUとの合意で認められている2022年までの延長は要求しないと主張している。

 これは昨年暮れの保守党の選挙公約でもあり、この趣旨は議会が可決したブレグジット法の中にも規定されている。もし2020年中に交渉がまとまらなければ、来年(2021年)から、イギリスとEUは無協定状態となり、相互に通常の関税を適用する事態が実現することになる。

 交渉期限を2020年中と区切ることはイギリスがEUにブラフ(脅し)をかけているようなものであり、EUではジョンソン首相の瀬戸際戦術(brinksmanship)だと評価されている。

 2020年1月末のブレグジット以前は「合意なき離脱」が恐れられた。当時ジョンソン首相は「合意なき離脱」がありうるとEUを脅していた。しかし、このとき懸念された「合意なき離脱」と2021年以降に予想されるイギリスとEUの無協定状態とは同じではない。

 北アイルランド紛争が再燃するのではないかと心配された北アイルランドとアイルランドの間の国境問題は、昨年(2019年)10月のイギリスとEU間の合意で解決されている。これを経て2020年1月末「合意ある離脱」が行われている。2020年にイギリスとEUの交渉が決裂しても、両者の間で関税や通関手続きが復活するだけである。ジョンソン首相の主張は大したブラフではない。

 さらに、瀬戸際戦術とは、北朝鮮がアメリカに対して採る戦術がそう呼ばれているように、通常は、弱い立場の者が強い立場の相手と交渉する際の手段の一つである。実際にも、EU加盟国の首脳の中には、経済力で勝るEUがイギリスを圧倒できるという発言も行われている。27か国が加盟するEUとイギリスでは勝負にならないという余裕の声も聞こえる。EU加盟国だけでなく、イギリスと交渉にあたる欧州委員会の担当者も、イギリスは交渉上の弱者だと考えているようだ。


アメリカのlevel playing field(共通の土俵論)の主張

 これは、イギリスがEUの市場に関税や割当て(quota)なしで輸出しようとしたいなら、労働や環境に関する規制や政府の補助(企業への課税)などの点で、将来ともEUの規制や政策から逸脱しないように要求するというlevel playing field(共通の土俵論)の主張に、最もよく表れている。

 level playing fieldは、アメリカの交渉者が様々な通商交渉で好んで口にする主張である。この背景には、アメリカの産業が競争で負けるのは、相手が不公平な手段を使っているからであり、そうでなければアメリカが負けるはずがないという、傲慢または身勝手と言える思い込みがある。アメリカがスポーツで勝てないことがあるとすれば、競技場が平ら(level)ではなく、相手方に有利なように傾いているからだと言うのである。

 日本との関係では、日本車がアメリカ市場に輸出されるのに、アメリカ車が日本でさっぱり売れないのは、日本政府の規制や特殊な日本の商慣行によって、アメリカ車が不公平に扱われ排除されているからだというのである。こうした考えが、アメリカの政府や自動車産業の中に根強く存在する。知的水準が高いはずの人さえ、このような意見を持っていることに驚くことがある。

 しかし、日本で、メルセデス、BMW、ボルボ、プジョー、フィアット、ミニなどのヨーロッパ車は多数見かけるのに、フォードやGMなどのアメリカ車はほとんど見かけない。アメリカ人が日本でアメリカ車が売れない理由を知りたいなら、日本に来て通りすがりの日本人にアメリカ車を買いますかと聞くだけでよい。アメリカ車の評判が悪いから、だれも買おうとしないだけだ。


傲慢なEUの交渉態度

 しかし、このようなアメリカでも、労働や環境に関する国際規律よりも緩やかな規制を採用することによって、アメリカ産業よりも有利な競争条件を獲得してはならないと主張するのがせいぜいで、自国の規制やそれと同等の規制を交渉相手国に要求したことはなかったはずである。欧州委員会がイギリスに要求していることを聞くと、いつからEUはアメリカよりも傲慢となったのかと思われる。

 地球温暖化問題について、EUが将来炭素税を採用したり、その排出権取引制度を変更したりすれば、イギリスも同じような政策を採用しなければならないのだろうか? 

 将来ともEUのルールや政策を採用し続けるよう主権国家に要求することはできない。EUがこれまで自由貿易協定を結んできた日本やカナダには要求しないで、イギリスに要求するのは不当である。そのような要求は、イギリスをEUの属国扱いしているようなものである。

 国際協定・条約の基本的な考え方は、相互に同じ権利・義務を認め合うという相互主義である。相互主義の観点からは、逆にEUがイギリスよりも規制を緩和することも認められないことになるが、それでもよいのか?

 欧州委員会は、そのようなことは考えてもいないのだろう。だとすると、これは不平等条約をイギリスに要求することに他ならない。

 メイ前首相がEUと合意した"バックストップ"にイギリスが反発したのも、バックストップが北アイルランドにはEUと同じ規制や基準を、イギリス本土にはEUと同等のものを、それぞれ適用するよう要求したからだった。

 EUによるlevel playing fieldの要求は、この蒸し返しである。イギリスの立場からすれば、受け入れられるものではない。ブレグジットとは、ブリュッセルから主権を回復して自由に法規制を定められるようにしようというものだからである。イギリス政府の文書は、主権(sovereignty)を強調している。

 EU加盟国政府や欧州委員会の官僚たちは、ブレグジットを実行したイギリス国民の意見に配慮しようとしていないようだ。加盟国市民からEUや欧州委員会が"民主主義の赤字"だと批判されるのも、もっともではないか。


有利なイギリスの交渉ポジション(漁業)

 しかし、EU加盟国政府や欧州委員会の官僚たちがイギリスを組みやすい相手だと思っていると、大きなしっぺ返しを受けるだろう。実はイギリスの交渉ポジションはEUよりも有利なのだ。

 昨年合意された日米の貿易協定のように、日本政府は アメリカ政府の要求に抵抗なく従ってきた。それは、日本がアメリカの軍事力によって保護されているという負い目があるからだ。そうでなければ、日本もアメリカと対等に交渉できる。

 しかし、イギリスとEUの間に、日米のような関係はない。イギリスはEUに対しておどおどと交渉する必要はない。

 今回の交渉では、EUの方に弱みがある。イギリスの漁業水域(鉱物資源にも主権的権利が及ぶので通常は"経済水域"という)で、フランス、オランダ、デンマークなどのEU加盟国の漁業者はEU全体の漁獲量の4割程度を採っている。これまではEUの共通漁業政策の下で、つまりブリュッセルによってEU加盟国には漁獲割り当てが認められていた。しかし、ブレグジット後はEUから独立したイギリス政府がイギリスの漁業水域について管轄権を持つ。イギリスが資源量等を勘案しながら毎年各国に漁獲枠を割り当てることになるのである。

 このときイギリスが自国の漁業者に優先的に漁獲枠を配分するのは当然だろうし、イギリスの漁業者もそれを期待している。

 EU加盟国の漁業者に従来通りの漁獲を保証したい欧州委員会はこのようなイギリス政府の対応に反対しているが、このようなやり方が国際的には一般である。2020年中にイギリスと合意できなければ、2021年からEU加盟国の漁獲割り当てはゼロになる可能性がある。

 これまでと同様の漁獲を要求したいというEUの気持ちはわかるが、イギリスにお願いする立場のEUが強くイギリスにあたれるはずがない。1970年代後半に200カイリ時代が到来し、それまで公海で自由に操業していた日本漁船は、ソ連やアメリカの漁業水域に入漁交渉をしなければならなくなった。突然弱い立場に置かされることになった日本にとって、これは大変厳しい交渉結果となった。今のEUと似ている。

 ソ連水域では大幅に漁獲量を削減されたため、日本政府は漁船を廃棄するための補償を漁業者に支払わざるをえなくなった。いわゆる"北洋減船"である。アメリカとの交渉では、入漁料のほか、アメリカ漁船が漁獲した魚を日本漁船が洋上で買い付けなければならないなどの見返りを要求されたうえ、最終的にはアメリカ水域から完全に締め出された。

 デンマークの首相が漁業は最重要課題だと述べているように、地域経済で重要な漁業は政治的に重要である。日本のような事態になれば、EUの中で大変な政治的混乱が起きるだろう。

 欧州委員会は、イギリスの漁獲量が増加してもその仕向け先はEU市場なので、2020年の交渉が決裂して関税が増加すれば、イギリスはEUに売れなくなると主張している。

 しかし、これはとんでもない思い違いである。EUがWTOにこれ以上は課さないと約束している水産物の関税率は22%のマグロを除き10%から20%以下のものが多い。この程度の関税が課されただけで、イギリスからEUへの輸出が影響を受けるとは思えない。

 むしろ、水産物などの食料品の需要量は価格が上昇してもほとんど減少しないという特徴(経済学的には非弾力的inelasticという)がある。関税が課されてもEUの消費者は買ってくれるのでイギリスの水産物輸出は影響を受けない。

 価格上昇の影響を受けるのは、EUの消費者である。関税の影響が多少あったとしても、EUの漁獲が減少した分イギリスの漁獲量や輸出量は明らかに増加する。被害を受けるのは、EUの漁業者と消費者である。


有利なイギリスの交渉ポジション(貿易・自動車)

 通常の貿易交渉でも、弱い立場にあるのはEUである。EU加盟国では、無協定状態となって困るのはイギリスだとする見方が強いが、これには根拠がない。

 モノの貿易では、EUはイギリスに対して935億ポンドの貿易黒字(2018年)となっている。EUからイギリスへの最大の輸出品目は自動車で465億ポンドである。これはイギリスからEUへの自動車輸出174億ポンドの2.6倍である。

 また、自動車の貿易黒字291億ポンドはEUの貿易黒字全体の30%を占める。自由貿易協定を結べば自動車の関税はゼロになるが、結べなければ10%の関税が適用される。イギリスとの自由貿易を望むのはEUの方であり、2020年の交渉が決裂して困るのはEUである。

 そればかりではない。2020年イギリスは日本やアメリカなどEU以外の国と自由に自由貿易協定の交渉を行うことができ、EUの関税同盟から離脱する2021年からは、これらの協定を発効することができる。

 これまで何度も強調してきたが、自由貿易協定の本質は非参加国への"差別"である。これに参加する国はアクセスの拡大などのメリットを受けるが、参加しない国はデメリットを受ける。

 イギリスとEUが無協定状態となり、イギリスが日本やアメリカなどと自由貿易協定を結べば、イギリス市場において、EUの損失によって日本などは利益を受ける。アメリカが日本と自由貿易協定を結ぼうとしたのは、TPP11によって日本の農産物市場をオーストラリアなどに奪われることを恐れたからだった。同様のことがEUに起こる。

 日本との貿易関係では、全体ではイギリスが30億ポンドの貿易赤字、自動車では、日本の輸出1934百万ポンド、イギリスの輸出1298百万ポンドで、イギリスの636百万ポンドの赤字となっている。日本側からすれば、貿易黒字である。イギリスとEUの交渉が決裂しイギリスと日本の自由貿易協定を発効すれば、EUからイギリスへの自動車輸出は10%の関税が適用されるので減少する一方、関税ゼロで輸出できる日本は輸出を増加できる。

 シビアな価格競争を行っている自動車産業にとって、10%の差は小さいものではないだろう。


有利なイギリスの交渉ポジション(農業)

 同じことが、アメリカやオーストラリアなどの農産物輸出国との関係でも起きる。EUの対イギリス輸出上位10品目のうち、7位に野菜・果実6920百万ポンド、10位に肉類5507百万ポンドがある。

 野菜・果実の関税は10~20%程度のものが多い。肉類については、ウルグアイラウンド交渉でEUは、非関税障壁を適用していた品目について、当時の内外価格差を関税に置き換えることによって非関税障壁を廃止した。この当時の内外価格差は大きく実質的に輸入禁止的な関税となった。これは"汚い関税化"(dirty tariffication)といわれた。

 このとき、EUも日本やアメリカと同様、為替の変動による影響を受けない従価税(a specific rate)を適用した。EUの牛肉関税(100キログラムあたり)は現在(12.8%+€176.8)である。これを従価税に換算するとどの程度のものになるか、(アメリカやオーストラリアからのEUへの輸出はほとんどないので)日本が輸入している冷凍牛肉の価格を使って試算すると、63%に相当する。日本の38.5%の牛肉関税に比べると高関税である。

 これによって、EUはアメリカやオーストラリアからの域内への牛肉輸入等を阻止してきた。まず、イギリスとEUの交渉が決裂した段階で、何が起きるだろうか? EUからイギリスへの輸出もアメリカやオーストラリアからのイギリスへの輸出も、同じく(12.8%+€176.8)の関税がかかることになる。同じ条件(それこそlevel playing field)では、価格競争力の劣るEU産の牛肉はアメリカやオーストラリア産に勝てない。EUの食肉産業はイギリス市場を失う。

 さらに、アメリカとイギリスの自由貿易協定を発効すれば、今度はアメリカからの対イギリス輸出への関税が撤廃され、EUがイギリスに輸出するときには高関税が適用される。アメリカは、EU産に対する優位性をさらに強固なものとすることができる。

 イギリスがTPPへ参加すれば、オーストラリアも利益を受ける。このような事実にアメリカやオーストラリアが気づけば、これらの国は早急(2020年中)にイギリスと自由貿易協定を結ぼうとするだろう。

 被害を受けるのは、EUの農業国フランスなどである。農業予算がEU予算全体に占める割合は減少してきているが、現在でも依然として4割を占めるなど、農業はEUの政治において大変重要な役割を果たしている。農業はEUのコーナーストーン(礎石)である。自動車では政治問題化しないが、農業は確実に政治問題化する。マクロン大統領も困難な事態に直面するだろう。

 なお、この問題は、アメリカとイギリスの自由貿易協定が発効されれば、EUがイギリスと自由貿易協定を結んでも解決しない。アメリカ、オーストラリア、EUに対するイギリスの牛肉関税がなくなったとき、競争力に不安を抱えるEUがアメリカやオーストラリアとlevel playing fieldで戦えるだろうか?


交渉態度の変更が必要なEU

 経済面ばかりではない。ジョンソン首相の政治基盤は盤石である。昨年末の総選挙で圧勝し、議会では与党保守党が野党勢力を圧倒している。しかも、自ら議会を解散したいと言わない限り、5年間政権は安泰である。ドイツのメルケル、フランスのマクロンなど、EU枢軸国の首脳の政治基盤が不安定であるのと対照的である。

 初回の交渉を終えたEUの首席交渉官バルニエは、記者会見で"大変重大な相違"(英語に訳すと very serious differences)があると強調していた。イギリスの強い立場に驚いたのではないだろうか。次の交渉では、イギリスがEUに協定案を示すと報道されている。EUが嫌なら決裂してもよいという交渉態度である。

 EUは交渉ポジションを再検討する必要があるだろう。ブレグジットの前と後ではイギリスの交渉ポジションは変化している。今のイギリスはこれまでのような弱いイギリスではない。EUが不利益な事態を回避したいというのであれば、イギリスに譲歩しながら集中的に交渉し2020年中に合意するしかないのではないだろうか。