メディア掲載 グローバルエコノミー 2019.11.01
現地時間10月17日10時半ころ、ボリス・ジョンソン英国首相とユンカー欧州委員会委員長がともにイギリスとEUとの合意を発表した。合意内容、合意に至るまで何が争点となったかという経緯とこれを踏まえた現時点における今後の見通しを述べたい。
10月31日のEU離脱期限が近付いてブレグジットの交渉が切迫した。10月中旬になって、合意なき離脱でも10月31日に離脱すると主張してきたボリス・ジョンソン英国首相が、合意ある離脱を真剣に模索し始めた。
メルケル独首相がジョンソンの提案は受け入れられないと主張したと伝えられた際には、合意への機運はしぼんだ。しかし、その後のジョンソン首相とアイルランド首相の会談で、北アイルランドの国境問題についてのジョンソン首相の新提案をアイルランド首相が評価したことから、この提案をEU側が真剣に検討し始め、イギリスとEUとの交渉が深夜に及んでまで行われるようになった。
私は10月11日からイギリスに来ているが、BBCなど現地の報道は合意への期待と失望の繰り返しで、荒海の中の小舟のようだった。
16日の深夜になって、事務的には、ようやく原則では大筋の合意ができた。しかし、これがEU首脳会議で正式に承認されるためには、法律文書として協定案に落とし込まなければならない。
今決まっているスケジュール通りだと、17~18日に開かれるEUの首脳会議でイギリスとEUの合意案が了承され、その後19日にイギリス議会が承認すれば、10月31日に合意ある離脱、そうでなければジョンソン首相はEUに3か月の離脱期限の延長を申し出ることになる。この延長をEUが認めなければ、10月31日に合意なき離脱となる。
しかし、EU首脳会議まで協定案が間に合わなければ、首脳会議では合意のアウトラインを記した政治的な合意文書だけが承認され、これが19日にイギリス議会で多数の承認が得られれば、月末のEU首脳会議とイギリス議会で法律文書として協定案が了承され、合意ある離脱が実現する。
なお、合意ある離脱の場合には2020年末までの移行期間が認められることから、10月31日にイギリスが離脱するわけではない。
これまで私は、ブレグジット問題の本質は、真の離脱(ブレグジット)のためには国境における通関処理などが必要であるのに対し、それを行うとアイルランドと英領北アイルランドとの間のヒトやモノの移動が制限されアイルランド紛争の再発の恐れがでてくることだと解説してきた。ブレグジットをしようとすると国境管理が必要になり、アイルランド紛争の再発を防止しようとすると国境管理をすべきではないという両立不可能な課題を処理しなければならないというものである。どちらかを採ると、他方を捨てるしかない。
ジョンソン首相の前の首相だったテレーザ・メイがEUと合意した協定案は、アイルランドとの国境問題を重視・優先して、ブレグジットを二の次にしたものだった。具体的には、2020年末までの移行期間までに新たな関係についての合意が得られない場合には、イギリス全体がEUの関税同盟(域内の関税をゼロにするという点では自由貿易協定と同じだが、域外に対する関税を統一する点が異なる)にとどまるうえ、域内の基準や規則をEUで統一し、ヒト、モノ、カネの移動を自由にする単一市場の原則を北アイルランドには今まで通り適用し、イギリス本土にはEU類似の基準や規則を適用しようとするものだった。
これが"バックストップ"と言われるものである。
アイルランド紛争の再発を防止し、EUの関税同盟と単一市場を守るという、EUの立場を受け入れたものだった。イギリスが離脱をお願いするという立場からすれば、当然の帰結だった。
ブレグジットについてはイギリスの動向が報道されるが、主導権を握っているのはEUである。イギリスでも取材の対象としてテレビなどに出てくるのは、EUの首席交渉官のミシェル・バルニエばかりで、イギリスの交渉官はほとんど出てこない。
しかし、イギリス国内では、二つの立場からバックストップに反対が表明され、メイの協定案は3度に亘りイギリス議会で否決され、承認が得られなかった。
一つは、ブレグジット派からの、これはブレグジットではないという当然の批判である。EUから抜けたのに、EUの規則に縛られてしまう。ブレグジットでEUの外に出たイギリスが、一切の決定権を持たなくなったEUが作る規則に従うことになる。これでは主権を回復しようとして、かえって主権を制限してしまうことになる。
また、EUとイギリスが域外国に対しては共通の関税を適用する関税同盟にとどまるということは、対外的な関税の決定権はEUにあるので、イギリスが自国の関税を下げてほかの国と自由貿易協定を結ぶことはできなくなる。これまた関税の自主決定権を取り戻すという目的に反してしまう。イギリスと自由貿易協定を結びたいトランプも反対した。
もう一つは、北アイルランドでイギリスとの結びつきを重視するプロテスタント系のDUP(Democratic Unionist Party)という政党からの反対である。
これは単一市場の原則の取り扱いがイギリス本土と北アイルランドとでは異なることを問題にした。DUPは10しか議席を持たない少数政党であるが、与野党の議席数が伯仲している中では、議決を左右する力を持った。DUPは保守党と連立与党となっているのに、3度の議決のいずれでも反対票を投じた。
こうした中で首相になったボリス・ジョンソンは、当初合意なき離脱でも構わないと判断し、まともな提案をEUに行ってこなかった。それが、離脱期限が迫るようになって、合意なき離脱による混乱を恐れたのか、ようやく真剣に提案を行うようになった。
最初の提案は、北アイルランドにはモノの流通を中心に単一市場の原則を適用するが、通関処理は国境ではなく別のところで行うというものだった。EUの規則の適用という点では、北アイルランドにもEUの規則、単一市場の原則が適用されるので、北アイルランドとアイルランドの国境管理は必要ではない。しかし、関税については、国境はあるのだが、そこでは通関処理を行わないという提案だった。DUPに配慮して、北アイルランドへの単一市場の原則の適用については、北アイルランド議会が拒否権を持つとした。
しかし、このような通関処理のやり方についてはEU側の納得が得られなかった。国境では通関処理だけ行うのではない。麻薬がイギリスに入り、そこから北アイルランドを通じてアイルランドに入ることを規制できなくなる。また、北アイルランド議会の拒否権についても、EUに拒絶された。これでは、EUとして交渉・合意しても、ご破算にされてしまうおそれがあるからである。
北アイルランドとアイルランドの間に国境は引くのだが、そこでは国境管理をしないという苦肉の提案が、EUに通じるはずがなかった。結局、北アイルランドとアイルランドの間に国境を引かないという選択肢しか残されない。 しかし、これではブレグジットにならない。メイのバックストップと同じことになる。
このためジョンソンは、EUが要求しメイが拒否した北アイルランドとイギリス本土の間に国境を引くという選択を飲まされることになった。メイはイギリス全体を関税同盟の下に置き、北アイルランドを含むイギリス全体とアイルランドを含むEUとの間に国境を引かないことにしたのだが、ジョンソンは、北アイルランドとアイルランドの間に国境を引かない代わりに、イギリスの中に国境を引くことを譲歩させられた。
これは、ジョンソンなどブレグジット派が強硬に反対したバックストップを、北アイルランドにだけ適用することに他ならない。
しかし、これはイギリス議会でキャスティングボードを握っているDUPの根本的な主義・主張に反してしまう。DUPからすれば、メイの協定案よりも悪い。このためDUPの説得が大きな課題となった。
DUPはボリス・ジョンソンがEU首脳会議に出席するためブラッセルに出発する直前に、現在の案は受け入れられないと表明した。
北アイルランドとアイルランドの間に国境を引かないということは、北アイルランドだけEUの関税同盟に残ることとなる。日本産の車が北アイルランドに輸出されるときは、イギリスではなく、EUの関税が適用されることになる。
しかし、これでは北アイルランドはイギリスの関税地域ではなくEUの関税地域に残ることになるため、イギリスは北アイルランドを分離したことになる。
特に、イギリスが他の国と自由貿易協定を結んで関税をゼロにしても、北アイルランドにはEUの関税が適用されることになる。これを避けるため、ジョンソンのイギリスは、北アイルランドに入るときはEUの関税を徴収するのだが、北アイルランドで消費されるときは関税を払い戻すという、これまた苦渋の提案をすることになった。
しかし、EUの交渉官であるミシェル・バルニエが使った例によると、この方法でイギリスと自由貿易協定を結んだインド産の砂糖に対して関税を実質的に徴収しないことにしても、北アイルランドに入った砂糖がコカコーラなどの製品に使用されてEU域内に輸出されるときは、EUの砂糖関税を適用・徴収することは困難となる。つまり、EUは関税で砂糖産業を保護することができなくなる。
これはこれまで私が説明してきたように、イギリスがEUと自由貿易協定を結んだ場合でも、イギリスがEU以外の国と結んだ自由貿易協定によってその国の物資がイギリスを経由して無税でEUに流れ込むのを防止するため、原産地規則による通関処理が必要になるというケースと似た例である。
というより、北アイルランドとEUの間で国境がなく、関税が徴収されることがないので、バルニエの例は北アイルランドがEUと自由貿易協定を結んだ場合と同じことになる。バルニエの例のように砂糖が加工されないときでも、北アイルランド域内で消費するとして輸入された砂糖がアイルランドを通じてEU域内に横流しされることを規制できない。ジョンソンの提案では、北アイルランドとEUとの間では国境管理(通関処理)をしないことになるので、EUは関税で産業を保護できない。
同じような例が、スウェーデンとEUに加盟しないノルウェーとの国境でも行われている。しかし、そこでは横流れや密輸が行われないよう、X線による国境検査が行われている。国境管理を行わなければ、EUの産業や単一市場は守れないのである。
はっきりしていることは、北アイルランドとアイルランドの間に国境を引かないということである。それ以外は、バルニエが簡単に説明しているものなどしか明らかではないが、彼は次の4点を挙げている。これを基に追加的な説明を加えたい。
1. 北アイルランドはモノに関するものを中心として限定されたEUの規則に従う(例えば、食品や動植物の検疫制度については、北アイルランド国境でEUの規則に従った検査が行われる。消毒方法が異なるアメリカの鶏肉はEUだけでなく北アイルランドにも輸入されない)。
2. 北アイルランドはイギリスの関税領域にとどまるが、EUの単一市場の入り口(an entry point)にはとどまる(イギリスは他国と自由貿易協定を締結できる。北アイルランド国境では基本的にはEUの共通関税を徴収するという意味だろう。イギリス本土から北アイルランドに物資が入るときは通常は関税がとられないが、そこからアイルランドに輸出されるというリスクがある指定物品については関税が徴収される。おそらく農産物(バルニエが挙げた砂糖等)など関税が高いものが指定物品になると思われる。この物品が北アイルランドで消費されるときは関税が還付される)。
3. EUの単一市場の原則は維持するとともに、付加価値税(VAT)に関するイギリスの正当な希望にこたえる(前者は、イギリスが離脱後環境や労働に関する基準を緩めることにより、EUへの輸出を増やすことはしないという意味だと思われる。後者については、北アイルランド国境の北と南で不平等が生じないよう付加価値税率を同じとする。北アイルランドとイギリス本土の税率が異なる可能性がある)。
4. 北アイルランドの議会はEUの規則を適用するかどうかについて4年ごとに決定することができる(DUPの要求を受け入れるとともに、この合意が4年後否決されるとその2年後に終了する等)。
バルニエは、記者会見で最後の点が最も重要な土台だ(a cornerstone)としている。しかし、北アイルランドの独立派(nationalists)、イギリス帰属派(unionists)のそれぞれの多数をDUPが要求していたのに対し、全体の多数だけでよいとしている。
結局、北アイルランドにだけバックストップを適用したことになる。ただし、国境管理についての上記の問題がこれで完全に解決できるのか、明らかではない。
議会の議決に必要となるDUPの反対を一部無視したことになっている。当地ロンドンでは、ボリス・ジョンソンはこれでDUPを押し切ろうとしていると分析されている。保守党の20名ほどの議員はジョンソンの合意なき離脱でもかまわないという主張に反発して、同党を離脱しており、また野党の労働党などは反対している。離反者や労働党の一部が賛成に回ることも予想されるが、19日多数の賛成を得られるかどうかなお不透明である。
ジョンソンはEUの首脳たちに離脱期限の延長を認めないよう要請している。これは議会が承認しなければ、10月31日に合意なき離脱になるぞという議会に対する脅しだろう。これを受けて、ユンカーも延長はしないと明言した。合意なき離脱の可能性はまだ残っている。