日本政府はアメリカ抜きのTPP11を妥結し、アメリカ産農産物を日本市場で豪州などよりも不利に扱うことで、アメリカのTPPへの復帰を促そうとした。トランプのTPP脱退によってもくろみは外れたが、日米二国間交渉となっても、アメリカの交渉ポジションを弱くすることができた。自動車への追加関税の脅しで日本政府は二国間交渉を余儀なくされたが、自動車関税は見送られる可能性が高まり、日本としての交渉ポジションが圧倒的に有利になった(『トランプは自動車関税を上げられない』)
そもそも日本としては、日米FTAなど、ない方がよかった。アメリカが困るというなら「TPPに戻ればよい」と言えばよかった。
しかし、TPPから脱退したトランプはいまさらTPPに戻れない。彼にとって日米FTAはどうしても必要となった。
トランプが2016年の大統領選挙に勝利したのは、貿易や移民が雇用を奪っていると主張し、ラストベルトと呼ばれ、自動車や鉄などの重厚長大型の産業が多いウィスコンシン、ミシガン、オハイオ、ペンシルベニアなど、これまで民主党の地盤だった中西部で勝利したからである。来年の大統領選挙で再選するためにもここでの勝利が欠かせない。
しかし、昨年11月の中間選挙では、ミシガン、イリノイ、ウィスコンシン、ミネソタ、ペンシルベニアといった中西部の州の知事選挙で、民主党が勝ち、党勢を盛り返している。
トランプ再選を左右する中西部は、ラストベルトであると同時に、アメリカで最も農業の盛んなコーンベルトでもある。トランプとしては、これまでも熱心な共和党支持者だった農家の票を失うことはできない。
それなのに、TPP11や日EU自由貿易協定の発効で、日本市場において、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、EUという農産物輸出のライバル国との競争条件に決定的な差がついてしまった。トランプは早急に日米FTAを締結し、日本市場でアメリカ農産物がライバル国の農産物と対等に競争できるようにしなければ、来年の大統領選挙で勝てなくなる。
トランプが始めた米中貿易戦争で、中国がアメリカ産大豆の関税を引き上げたことから、中国への大豆の輸出が大幅に減少し、中西部の農家は大きな打撃を受けている。このうえ、牛肉などの日本市場まで失うと大変だ。どうしても日本の農産物市場を確保しなければならないアメリカに対して、日本は交渉上圧倒的に有利な立場に立っているはずだった。
それなのに、これまでの日米交渉と同じく、日本側が譲歩を重ねる交渉となっている。
まず、二国間交渉をすると農産物でTPP以上の譲歩を要求されると勝手に思い込み、TPP以上の譲歩を防止することを最大の交渉目標としてしまった。
この結果、交渉の入り口の段階となる2018年9月の日米首脳の共同声明で、TPPや日EU自由貿易協定などこれまでの交渉で譲歩した以上のことはできないと主張し、逆にそれまでの譲歩をアメリカに認めてしまった。
アメリカにそもそも農産物の関税削減を認めるかどうかということではなく、TPP並みの譲歩以上は許してほしいということになってしまったのである。アメリカにしてみれば、日本からは、最低TPP並みの譲歩は取れると思っている。
日EU自由貿易協定では、EUが関心を持っているチーズなどについてTPP以上の約束をした。アメリカは勝手にTPPから離脱したのに、これも含めて日本側に譲歩を迫っている。
TPP11での輸入割当枠やセイフガード発動水準はアメリカの輸出実績を加えたままの水準になっているため、アメリカがTPP11に戻ってこないことがはっきりすれば、アメリカの輸出分は差し引かなければならず、そのための交渉をオーストラリア等と行わなければならない。
アメリカにTPPプラスの追加的な譲歩をするなら、TPP11に付合ってくれたカナダ、オーストラリア、ニュージーランドにも同様の条件を認めざるをえなくなる。日本の農業界にとっては、これはさらなる譲歩となり受け入れられないと反発するだろう。
米韓自由貿易協定で韓国車に対するアメリカの関税は2017年に撤廃されたのに、TPPでは、アメリカの2.5%の自動車の関税撤廃に25年もかかるという譲歩を強いられることになった。(具体的には15年目から削減開始(2.25%)、20年目で半減(1.25%)、22年目で0.5%まで削減、25年目で撤廃)
25%のトラック関税は、29年間維持された上で、30年目にようやく撤廃される。日本政府は自動車部品について米韓自由貿易協定で韓国が勝ち取ったものを上回る87.4%の関税が協定発効後に即時撤廃されると説明した。
しかし、アメリカに対して日本が自動車で支払っている関税は約1千億円、即時撤廃される自動車部品の関税は200億円に過ぎないものだった。つまり、TPP交渉で、日本は自動車について満足できる結果を得られなかったのである。
日本が圧倒的に有利な立場にいる以上、日米FTA交渉では、自動車関税については、TPP並みの25年後の撤廃ではなく、即時撤廃を要求すべきだった。
しかし、アメリカは、自らは農産物についてTPP以上を要求しながら、自動車についてはTPP並みの関税引き下げという日本側のささやかな要求さえ拒否している。
7月17日のロイター通信は、現在ワシントンで行われている日米協議について、次のように報じている。
自動車業界のある関係者によると、日本が米国に対して農産品の市場を開放し、その見返りに米国が日本製の自動車部品の一部について関税を削減するという内容の合意となる可能性がある。(中略)米国が自動車部品の関税削減で合意した場合でも、米議会の承認は必要とならないとみられる。大統領は関税率が5%未満の製品の関税を撤廃あるいは削減する権限があり、自動車部品の大半は関税率が約3─6%にとどまる。
なぜアメリカは連邦議会の承認が必要とならない合意を求めているのだろうか?
実は、アメリカ連邦議会は、政府に対して、農業だけとか物品だけとかという協定ではなく、サービスや知的財産権等も含めた包括的な自由貿易協定を提出するよう、要求している。そうでないと承認しないというのである。
しかも、知的財産権などTPPの一部の章については共和党も含めて議会の反対があるため、TPP類似の規定を入れた包括的な自由貿易協定だと、議会の承認が得られない可能性が高い。現に、NAFTAを改定したUSMCAは、民主党の反対により未だに議会承認のめどが立っていない。
しかし、議会が満足するような協定を日本と合意するためには、TPP合意を蒸し返すことになり、交渉にかなりの時間がかかってしまう上、仮に日本から一定の合意を勝ち取ったとしても、議会の承認が得られる保証はない。議会の承認を得た包括的な日米FTAを発効させようとすると、何年かかるかわからない。とても来年の大統領選挙には間に合わない。
これでは、既にカナダ、オーストラリアなどライバル国と大きな競争条件の格差がついてしまっているアメリカ農業界の要望を満足させることはできない。それどころか、アメリカの農業界にとっては、交渉が遅れれば遅れるほど、日本市場で関税が段階的に下がっていくライバル国との競争条件の格差は、どんどん広がってしまう。
つまり、議会承認を回避するためには、包括的な自由貿易協定は結べない。この点でもアメリカ政府の交渉ポジションは極めて弱いのである。
物品だけの自由貿易協定に限定したとしても、トランプ政権としては、自動車と鉄が中心のラストベルトの票を獲得するためには、自動車の関税を引き下げるという譲歩はできない。自動車部品なら、これが輸入された後にアメリカの工場で組み立てられることになるので、アメリカの雇用は増加すると主張できる。
しかも、5%以下の関税なら議会の承認は要らない。日本さえ了承すれば、今年中にもアメリカ農業界の要望を満足させることができる。ロイター通信の報道は、以上のようなアメリカ政府の置かれた状況を前提にしている。
もちろん、アメリカ連邦議会の承認は要らなくても、日本は農産物の関税を下げるので、国会の承認が必要となる。これほど日本が馬鹿にされた交渉はない。
そもそも、勝手にTPPから離脱して苦しい状況になっているのは、トランプである。日米FTAなんていらない日本とどうしても必要なアメリカとでは、交渉ポジションは圧倒的に日本有利である。傍から見ると、横綱が幕下と両差しになりながら相撲しているようなものである。
しかし、実際は、属国が宗主国の言うことを全て聞くような交渉となっている。「こんな日米FTAなんてやめた」と席を立つ交渉者は出てこないのだろうか?
首脳同士の仲が良いことが、逆にアメリカの言うことは何でも聞く日本になっているようだ。今度は交渉者がシンゾウ・ドナルド関係を忖度しているのだろうか?
安倍首相はトランプにいっぱい言っていると言うが、日米安保についてのトランプの発言などを聞くと、その主張はトランプの心には響いていないようである。
7月17日付朝日新聞夕刊の「時事小言」で藤原帰一氏が指摘しているように、安倍首相は一見華々しい首脳外交を展開しているように見えるが、ほとんど見るべき成果を上げていない。
安倍首相は、アメリカ農産物について譲歩する代わりに、北朝鮮にいる拉致被害者の即時解放を金正恩に要求し実現するよう、トランプに申し入れてはどうだろうか? 安倍首相は「拉致問題は安倍政権の最重要事項」とか「被害者家族に寄り添う」などと発言してきた。拉致被害者の心に寄り添っているはずのシンゾウなら、シンゾウ・ドナルド関係を利用して、それくらいのことはドナルドに頼んでもよいのではないだろうか。シンゾウが金正恩に要求するのは難しいにしても、ドナルドなら拉致被害者の解放を実現できるのではないだろうか?