メディア掲載 グローバルエコノミー 2019.07.26
日本政府は米国抜きの環太平洋連携協定(TPP)であるTPP11を発効させ、日本市場で米国産農産物をオーストラリアなどよりも不利に扱うことで米国のTPPへの復帰を促そうとした。日米の2国間交渉となっても、米国の交渉ポジションを弱くすることができた。自動車への追加関税の脅しで日本政府は2国間の貿易協定交渉を余儀なくされたが、自動車関税は見送られる可能性が高まり、日本としての交渉ポジションが圧倒的に有利になった。にもかかわらず、従来通り米国に押しまくられる交渉となっている。
米トランプ政権は、どのような意図をもって日米交渉を始めたのだろうか。まずは、トランプ大統領個人の考え方である。 トランプ大統領の貿易に対する見方は、黒字は良くて赤字は悪いという単純なものである。しかも、米国に対して黒字を抱えている国は、不公正な手段で輸出を増やし、米国の職を奪っているというのだ。国と国との関係は貿易だけでなく、政治、経済、文化、軍事、安全保障などさまざまな側面から構成されるものなのだが、貿易についての見方がすべてに優先しているようである。
トランプ大統領にとっては、米国に対する黒字国は敵である。中国を敵視するだけではなく、同盟国であるはずの日本やドイツなどにも攻撃的となる。カナダや欧州連合(EU)に対して、しばしば友好国ではないかのような対応を行う。
連邦議会やトランプ政権内の対中強硬派は、中国が米国から技術を盗んで覇権国になろうとしているという警戒感が強く、中国に知的財産権の保護、強制的な技術移転の禁止、産業補助金の削減、国有企業に対する規律など構造的な問題への対応を求める。しかし、貿易赤字解消を優先するトランプ大統領は、中国が米国産農産物の買い付け拡大を提案すれば、矛を収めるかもしれない。
トランプ氏が2016年の大統領選で勝利したのは、貿易や移民が雇用を奪っていると主張し、ラストベルト(さび付いた工業地帯)と呼ばれ、重厚長大型の産業が多いウィスコンシン、ミシガン、オハイオ、ペンシルベニアなど、これまで民主党の地盤だった中西部で勝利したためである。来年の大統領選で再選を果たすためにも、ここでの勝利が欠かせない。
16年夏、米議会でTPPの承認が得られないことが明らかとなった。私は、日本が米国抜きのTPPをまとめれば、日本の農産物市場で、TPPに入っていない米国はTPP参加国の豪州、カナダなどよりも高い関税を払わざるを得なくなり、米国は膝を屈してでもTPPに入れてくれという交渉をするはずだと主張した(本誌16年12月12日号「トランプ政権の通商交渉と日本―米国抜きの新TPPを実現せよ」参照)。しかし、安倍晋三首相は国会で「米国抜きのTPPは意味がない」と答弁し、当初は否定的だった。
トランプ大統領がTPPから脱退したのは、民主党の大統領予備選でバーニー・サンダース上院議員がTPP脱退を叫んで中西部ラストベルト地帯で多くの支持を獲得し、クリントン候補に肉薄したのに倣ったためである。その上、何事にもディール(取引)を強調するトランプ大統領は、多国間のTPPではなく、2国間の交渉の方が相手国から多くの譲歩を勝ち取ることができると確信している。
トランプ大統領が2国間交渉を要求してくることが明らかになると、日本政府はTPP交渉で譲歩した以上のものを農産物で求められるのではないかと恐れた。安倍政権は方針を転換し、米国抜きのTPP11をまとめた。これによって、米国産農産物を日本市場で不利に扱い、米国に強く出られないようにしたのだ。これが嫌なら、米国はTPPに戻ってくればよいのだという主張を展開することも可能となった。
ところが、トランプ大統領は常識外れの貿易政策を展開する。安全保障を理由に、鉄鋼や自動車の関税を引き上げると言い始め、実際に鉄鋼やアルミの関税を引き上げた。これはラストベルトへの公約を実施したものだった。
わが国は、鉄鋼やアルミの対米輸出額は多くなく、また、関税引き上げの適用が除外される高品質のものを輸出していたので、日本への影響は軽微だった。しかし、自動車になると話は違う。日本政府は関税の引き上げを恐れた。
世界貿易機関(WTO)では、安全保障のためには例外的な措置を採ることが認められているが、一般向けの自動車が武器や弾薬と同様の軍事施設に供給するための財とは思われない。WTO違反の措置だが、WTO自体が機能不全に陥っていることや型破りなトランプ大統領の行動のため、WTO違反をしないという当たり前のことが、交渉の大きなバーゲニングチップ(取引材料)になってしまった。もちろん、対中貿易戦争や鉄鋼の関税引き上げの際、中国、カナダ、メキシコ、EUが採ったように、米国産農産物などに報復措置を講じればよいが、日本政府にそんな度胸はない。
こうして、多国間協定であるTPPへの米国の復帰を主張してきた日本も、否定してきた2国間の貿易交渉に応じざるを得なくなった。WTOルール違反である自動車関税引き上げの脅しに屈したのである。ところが、日本政府は米国との自由貿易協定(FTA)交渉は行わないと言ってきたので、苦し紛れに物品貿易協定(TAG)交渉だと国内向けに説明した。TAGといっても2国間の交渉に変わりはない。多国間から2国間に方針転換したことを責めるべきなのに、マスコミも野党も米国はサービスなどを含むFTAと言ってTAGと言っていないではないかなどと、本質から外れた批判を行い、安倍政権を助けてしまった。
しかし、ここに来てトランプ政権が本当に自動車の関税を引き上げるかどうか、怪しくなってきている。
5月以降、通商政策に変更が見られる。まず17日、安全保障への脅威を理由として実施してきた鉄鋼やアルミニウムの関税引き上げを、カナダとメキシコに対して停止し、翌日に判断の期限が迫っていた、同じく安全保障への脅威を理由とする自動車関税引き上げの判断を180日間延期した。
さらに、トランプ大統領はメキシコを経由した不法移民問題がなかなか解決しないことに業を煮やし、6月10日以降、メキシコからの全ての輸入品に5%の制裁関税を課し、その後段階的に引き上げ10月に25%とすると主張していたが、新たな不法移民対策にメキシコ側が同意したとして6月7日、関税発動を無期限で見送ると発表した。
鉄鋼関税の見直しは、報復措置としてメキシコが引き上げた豚肉や乳製品の関税引き上げが米国農業に大きな打撃を与えたことや、これが北米自由貿易協定(NAFTA)を見直して合意した米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)の各国議会での承認の妨げになったからである。メキシコへの課税は、部品が何度も国境を行き来する自動車産業にとっては多数回の課税になるという反対があった。
部品も含む自動車の関税引き上げは、米国内で生産される自動車のコスト増となり、鉄鋼関税で一息ついている鉄鋼業界に対しても、自動車産業の鉄需要減少を通じて打撃を与える。自動車は最終消費財なので、全米に存在する多数の自動車ディーラーなどの産業界だけではなく、最終的には消費者への影響が生じる。そうなると多くの票が逃げてしまう。
メキシコとの国境に不法移民を防ぐ壁を建設するため、トランプ大統領は国家非常事態宣言をして、連邦議会が決定した防衛予算の一部を流用しようとした。これに対して、与党である共和党の一部議員が造反して、国家非常事態宣言に反対する決議が上下両院で可決された。予算制定権と同様、関税や通商問題の権限は本来議会の権限だが、トランプ大統領がその権限を侵そうとしていることに対して議会は党派を超えて反発している。メキシコへの関税も、国家非常事態宣言をして導入しようとしていた。マイク・リー共和党上院議員は6月18日、USAトゥデー紙に投稿し、議会は通商交渉の権限を大統領から取り戻すべきだと主張している。通商問題は、民主対共和ではなく、議会対行政府の構図となっている。
自動車関税については、自動車業界自体の反対もあって、議会は超党派で反対している。5月8日には、159人の下院議員(うち民主党78、共和党81)がラリー・クドロー国家経済会議委員長に、自動車関税の引き上げはサプライチェーンに連鎖的に負の影響をもたらし米国経済を縮小させる上、報復措置を招くので、これをやめるよう大統領に助言すべきだという書簡を送っている。
つまり、日本が日米2国間交渉を始める前提となった自動車関税の引き上げの可能性がなくなってきたのである。しかし、トランプ大統領にとって日米交渉はどうしても必要である。再選を左右する中西部はラストベルトであると同時に、米国で最も農業の盛んなコーンベルトでもある。農家の票を失うことはできない。しかし、昨年11月の中間選挙では、ミシガン、イリノイ、ウィスコンシン、ミネソタ、ペンシルベニアといった中西部の州の知事選で野党の民主党が勝ち、盛り返している。
TPP11や日・EU経済連携協定(EPA)の発効で、米国は日本市場において、カナダ、豪州、ニュージーランド、EUという農産物輸出のライバル国と競争条件で決定的な差がついてしまった。4月からこれら諸国産の牛肉関税は26.6%に下がり、14年後には9%になる。これに対して、米国産牛肉への関税は38.5%のままである。既に10%以上の関税差がついており、時間がたてばたつほどこれが拡大していく。これは、小麦、乳製品、ワインなど他の農産物についても同様である。
米国の食肉業界は、飼料としてトウモロコシや大豆を使用する食肉の対日輸出が不振となれば、既に米中貿易戦争で打撃を受けている中西部のトウモロコシや大豆の生産者に、150 億〜200 億㌦(1 兆6500億〜2兆2000億円)の被害が生じると主張している。トランプ大統領が始めた米中貿易戦争により、中国が米国産大豆の関税を引き上げたことから、中国への大豆輸出が大幅に減少し、中西部の農家は大打撃を受けている。この上、牛肉なども日本市場を失うと大変だ。
昨年9月、私は米農務省の幹部に、翌年1月に日米交渉が開始されるとすれば、いつ交渉をまとめたいと思っているのかと質問した。答えは2月だった。それだけ、切羽詰まっているのだ。
これに対して、日本には米国と自由貿易協定を結ぶ必要はない。自由貿易協定がなくても、自動車は米国に輸出されている。トランプ大統領の自動車関税引き上げの可能性も少なくなり、米国がどうしても日本の農産物市場を確保しなければならないという状況では、日本は交渉上、圧倒的に有利な立場に立っているはずである。
それなのに、これまでの日米交渉と同じく、日本側が譲歩を重ねる交渉となっている。まず、2国間交渉をすると農産物でTPP以上の譲歩を要求されると勝手に思い込み、TPP以上の譲歩を防止することを最大の交渉目標としてしまった。この結果、交渉の入り口の段階となる18年9月の日米首脳の共同声明で、TPPや日EUのEPAなどこれまでの交渉で譲歩した以上のことはできないと主張し、それまでの譲歩を米国に認めてしまった。そもそも農産物の関税引き下げを認めるかどうかということではなく、TPP以上の譲歩は許してほしいということになってしまったのである。
日EUのEPAでは、EUが関心を持っているチーズなどについてTPP以上の約束をしている。米国は勝手にTPPから離脱したのに、チーズなども含めて日本側に譲歩を迫っている。TPP11での輸入割当枠やセーフガード(緊急輸入制限)発動水準は米国の輸出実績を加えたままの水準になっているため、米国がTPP11に戻ってこないなら、その輸出分は差し引かなければならず、そのための交渉を豪州などと行わなければならない。米国にTPPプラスの追加的な譲歩をするなら、TPP11に付き合ってくれたカナダ、豪州、ニュージーランドにも同様の条件を認めざるを得なくなる。日本の農業界は反発するだろう。
日本が圧倒的に有利な立場にいる以上、米国の自動車関税(2.5%)についてはTPP並みの25年後の撤廃ではなく、即時撤廃を要求すべきだった。2.5%の自動車関税は小さいと思われるかもしれない。しかし、日本の自動車メーカーは米国で一般車を生産する一方、レクサスなどの高級車は日本で製造して米国に輸出している。レクサスなどは単価が高いので2.5%の関税でも、金額にすると10億㌦(1100億円相当)に上る。このため、TPP交渉の際、フォード・モーターなど米国の自動車業界は、これを撤廃することに反対したのである。
しかし、米国は自動車についてTPP並みの関税引き下げという日本側のささやかな要求も拒否している。まず、日本が農産物について米国の要求をのんだ後に、交渉するというのだ。交渉とはパッケージで進められるはずなのに、米国の要求を満足させれば、日本の要求も検討してやってよいという対応だ。このやり方だと、日本の要求を米国が認める保証はない。
米連邦議会は、農業だけとか物品だけとかの協定ではなく、サービスや知的財産権なども含めた包括的な自由貿易協定を要求している。そうでないと承認しないというのである。しかも、知的財産権などTPPの一部の章については議会の反対があるため、TPP類似の規定を入れた包括的な自由貿易協定だと、議会の承認が得られない可能性が高い。もちろん、米国の関税を下げるなら議会の承認が必要となる。
しかし、日本が一方的に農産物の関税を引き下げるだけなら、米国の政策に変更はないので、議会の承認は要らない。つまり、日本だけが譲歩するなら、協定は成立するというのだ。
もちろん、日本が関税を下げることについては、日本の国会の承認が必要となる。しかも、物品だけの自由貿易協定とする場合でも、農産物だけではなく自動車なども含め実質上すべての貿易を対象としなければ、関税貿易一般協定(GATT)・WTOに違反する。米政府は、日米の双務的な協定ではなく、日本だけが義務を負担する片務的な協定なら米議会承認が不要だと言っているのである。また、日本の国会にWTO違反の協定を承認させようとしている。これほど日本をばかにした主張はない。
そもそも、勝手にTPPから離脱して苦しい状況になっているのは、トランプ政権である。また、これによって日本はTPP11交渉をやり直すという手間もかけさせられた。カナダ、豪州、ベトナムなどのTPP参加国は、日本に付き合ってTPP11を締結してくれた。これらの国と米国を同じように扱ってよいのだろうか。
それだけではない。もし日米の貿易協定が結ばれ、米国産農産物の日本市場での不利性がなくなれば、米国がTPPに復帰するインセンティブはなくなってしまう。
ベトナムは、米繊維市場へのアクセス拡大の見返りとして、TPP協定で国有企業への規律を受け入れた。日本はTPP11にベトナムを参加させるために、いずれ米国もTPPに復帰し繊維市場へのアクセスが得られると、ベトナムを説得したはずである。TPP離脱という問題行動を起こしたトランプ大統領にはこびへつらい、日本の説得には応じてくれたベトナムの利益は無視するという態度をわが国はとってよいのだろうか。
首脳同士の仲が良いのは通常は歓迎すべきことだが、常識が通じないトランプ政権が虫のいいことを言ってきたときに、安倍政権は断固としてはねつけられるのか。むしろ、トランプ大統領に遠慮して不必要な譲歩をしてしまうのではないか。心配は絶えない。