7月5日の朝日新聞は「命運握る一人区」という見出しで、74地方区の中の32の一人区について、「わずかな票差でも当落が決まり、全体の結果を左右する」と述べている。
与野党とも認識は同じである。安倍総理率いる自民党は、前回の参議院選挙で敗北した11選挙区を含む16選挙区を「激戦区」に指定、特に1勝5敗と大きく負け越した東北地方の一人区を重点的にテコ入れする考えである。
立憲、国民民主、共産の野党も、共倒れを回避するため、32選挙区すべてで候補者を統一し、与党と対峙している。
さらに、6日付けの朝日新聞は「序盤の情勢 一人区激しい争いも」と題し、一人区のうち、秋田、長野、愛媛、沖縄で野党候補がリードし、岩手、宮城、山形、新潟、滋賀で競り合いとなっていると分析している。
沖縄は基地問題、愛媛と滋賀は野党が人気のある候補を擁立したという事情があるだろう。しかし、それ以外は東北、信越地域である。長野は伝統的に野党勢力が強いという事情があるが、それ以外の東北、新潟は保守的なイメージが強く、ここで自民党候補が苦戦していることに意外に思われる人が多いのではないだろうか?
これらの地域には共通点がある。いずれも、経済や社会のなかで農業の占める役割や地位が大きい。しかも、農業のうち米の占める比重が他地域に比べて高い。
安倍政権になって、農業界が反対してきたTPPに参加したこと、2014年産の米価が大きく下落したことが、前回の参議院選挙で自民党が東北地方区で1勝5敗と大きく負け越した原因だと言われている。
その前の2013年の参議院選挙では、自民党は一人区で29勝2敗と大勝した。しかし、この選挙でも、安倍内閣になってから参加を決定したTPP交渉に不満を持つ山形県の農協組織が対立候補の支援に回ったため、自民党候補は48%対45%というわずか3%の差でかろうじて逃げ切るというきわどい選挙となった。
つまり、東北などの「激戦区」では農家票が選挙を左右しているのである。
しかし、これも意外な事実である。農家票は減り続けており、東北でも例外ではないからである。
全国の農家戸数は、1960年606万戸、1980年466万戸、2000年312万戸、2015年216万戸である。1960年から比べると3分の1まで減少している。最新の動きを把握するため、統計が明らかな、ある程度農産物を販売している農家(「販売農家」という)数の推移を見ると、2000年の234万戸から2019年には113万戸とこの20年で半減している。
秋田県を例にとると、県内総生産に占める農業の割合(カッコ内は全国の数字。以下同じ)は2.5%(0.9%)、就業者数に占める農業の割合は9.0%(3.4%)、一般世帯に占める農家の割合12.6%(4.0%)である。いずれも全国の数値よりも高くなっているが、選挙の帰趨を左右するほどの大きな数値とは言えない。
秋田県でも、農家戸数は1965年の12万戸から5万戸へ、農家の一般世帯に占める割合は同じ期間42.8%から12.6%へと極端に減少している。農業は経済的にも人口的にも大きく比重を低下させているのである。
それなのに、なぜ農家票がこれほど重要な役割を果たしてしまうのだろうか。
それは一人区という特徴からである。これは同じ一人区である衆議院選挙の小選挙区も同様である。
農家票はJA農協によって組織された固定票である。与野党の候補が50対50で競っているところで、少なくなったとはいえ2%の組織票が対立候補に入ると、48対52と4%の差がついてしまう。これに地方の一人区や小選挙区で立候補する政治家は怯える。
落選すると政治家は失業してしまう。一家の生活をかけた戦いだから真剣である。自民党が公明党と連立を組むのも同じ理由である。公明党の固定票が野党に流れるとその倍の差がついてしまう。
その結果、農業を保護すべきかどうかで対立するとか、農業についての政策で大きな違いが生じるのかというと逆である。与野党の候補とも農家票を求めて争うため、農業保護を競い合う選挙戦となってしまう。
米については、立憲、国民民主とも、民主党政権の時に打ち出し、自民党政権になったとたんに廃止された、戸別所得補償政策の復活を掲げている。これは減反で高い水準の米価を維持したうえで、10アールあたり1.5万円の金を農家に支払うというものである。戸別所得補償政策の"戸別"という言葉は、農家にお金をバラマクという意味で、選挙に長けたといわれる小沢一郎氏の命名になるものである。
他方で、戸別所得補償政策を廃止した自民党は、2014年の米価低落の教訓から、ほとんどただ同然の収入しか得られないエサ用の米に主食用の価格と同額の金を農家に支払い、エサ用の米を増産し主食用の供給を減らして、主食用の米価をより高く維持しようとしている。
これによって、"減反を廃止"した(これは安倍内閣のフェイクニュースである)といわれるのに、供給量が減少しているので、外食店では安い業務用の米が手に入らないという苦情が出されている。財務省も財政負担が高すぎると批判している。しかし、"農家第一"の農林族議員や農林水産省は意に介さない。
それどころか、自民党は、小沢一郎氏が戸別所得補償政策の財源をねん出するために3分の1まで大幅に減額した農業公共事業費(「農業農村整備事業」という)を、もとの予算額以上にしたとアピールしている。農業公共事業費の復活を運動し続けてきた全国土地改良事業団体連合会(全土連)の会長は、自民党の二階俊博幹事長である。
貿易の自由化にも与野党の候補者は賛成しない。関税を下げて農産物や食料品の価格を下げることには、どの候補者も反対である。
農家票を取りまとめるJA農協は、高米価によって非効率な零細兼業農家を維持し、その兼業所得などを預金として活用して日本第二位のメガバンクまで発展した組織である。農産物価格、特に米価を下げようと主張しようものなら、JA農協を敵に回し、農家票を対立候補に渡してしまう。
自民党はTPP交渉で米などの重要な農産物の関税は削減しなかった。代わりにアメリカ等に安い関税で輸入できる米の輸入枠を設けたが、これで輸入したと同量の米を国内市場から買い上げるという政策を打ち出し(つまり国内市場での供給量、米価は変わらない)、財政負担で輸入米の影響を処理することで、米農業への影響が全く出ないようにした。
また、関税を下げる牛肉や豚肉については、過剰なまでの国内対策を講じ、焼け太りとまで言えるほどの手当てを行った。今行われている日米貿易交渉ではTPP以上の譲歩はしないことを掲げている。
この点は、与野党の候補とも一致している。野党はもっと手当てを充実すべきだと主張する。
この関税によって農業を保護するという政策は、国民・消費者に国際価格よりも高い値段で農産物や食料品を買わせるということに他ならない。
多くの政治家は、貧しい人が高い食料品を買うことになる逆進性が問題だとして、消費税増税に反対した。食料品の軽減税率も導入される予定である。
その一方で、関税で食料品価格を吊り上げる逆進性の塊のような農政を維持することは、国民の生活第一とか家計重視とかスローガンとする政党も含め、与野党の政治家にとっては、国益となるのだ。
OECDは関税による日本の農業保護を4兆円と試算している。消費税1%が2兆円に相当するので、これは消費税2%に相当する。つまり、関税を撤廃して消費者が安く農産物や食料品を購入することができるようにして、その負担を減じ、他方で消費税を8%から10%に引き上げれば、国民負担は全く増えないで財政再建に貢献できる。
もちろん農業だけで生活している専業農家にはEUが行っているような直接支払いを行う必要があるが、米の減反補助金4000億円を廃止するので、その5分の1以下の金額で済む。財政的にも国民負担は大きく減少する。
しかし、残念ながら、そのような方向に政治は動かない。
自民党が政権に返り咲いた衆議院選挙を分析した朝日新聞と東京大学は、自民党に投票したほとんどの有権者はTPPを支持していたのに対し、当選した自民党の候補者のほとんどがTPP反対だったと分析している。JA農協がTPPに強く反対したからである。
こうして特定の政策に強く影響されるグループの意向や利益が全体の政策を決定してしまう。今の選挙制度は国民全体の民意を反映したものではない。民主主義の難しさなのだろうか?