5月17日、トランプ政権は通商政策を変更した。
安全保障への脅威を理由として実施してきた鉄鋼やアルミニウムの関税引上げを、カナダとメキシコに対しては停止した(日本やEUなどに対しては引き続き適用)。次に、18日に判断の期限が迫っていた、同じく安全保障への脅威を理由とする自動車関税引上げの判断を180日延期した。
日本の自動車業界にとって、アメリカは最大の輸出先である。自動車関税の引上げについては、自動車部品の関税も引き上げるというものなので、日本から完成品の自動車を輸出する場合はもちろん、日本などから部品をアメリカの現地工場に輸出して自動車を作り上げる場合にも、関税引き上げの影響は及ぶ。
自動車業界は、これを自動車価格に上乗せして消費者に転嫁することができなかった場合には、関税引き上げによるコストアップを自ら負担せざるを得なくなり、収益は減少する。仮に消費者に転嫁できたとしても、消費者が購入する量、自動車業界からすれば販売量は、価格上昇によって減少するので、売上高の減少となり、これまた収益の減少となる。実際には、完全に転嫁できる場合とすべて負担する場合との中間に落ち着くことになるが、いずれにしても収益は減少する。
トランプは関税をかけても負担するのは輸出国の企業だと主張している。しかし、クドロー国家経済会議(NEC)委員長が認めたように、(特殊なケースを除いて)経済学的には誤りで、アメリカの消費者も関税引き上げの一部を負担する。日本車のように評価が高い商品の場合には、消費者への価格転嫁は比較的容易かもしれない。しかし、自動車業界も完全には転嫁できないことによる手取り価格の減少と価格上昇による販売量の減少という二つの要素による負担は免れない。
同じように、鉄の塊のような自動車の場合、自動車の素材である鉄鋼の関税引上げは、現地生産している日本車のコスト増加、収益の圧迫要因となっていた。今回の政策変更は自動車業界には朗報だろう。
トランプは、自由貿易がアメリカの雇用を奪ったと主張し、民主党の牙城であった中西部ラストベルトで勝利し、大統領となった。
ラストベルトを代表するのは、鉄と自動車である。この産業は、かつてアメリカの繁栄の象徴と見なされてきた。GM(ゼネラル・モーターズ)にとって良いことはアメリカにとって良いことだとも言われた。
しかし、輸入に押され、衰退産業となってしまった。巨大な鉄工所は廃墟と化し、自動車産業の中心として栄えたデトロイトは2014年市自体が破産するという憂き目にあった。
ラストベルトでの勝利のおかげで大統領に当選したトランプが、鉄鋼や自動車の関税引き上げを打ち出したのは、当然だった。実際にも、鉄鋼の関税引上げで、その価格は上昇し、ある程度鉄鋼業界に活況が戻っている。
それなのに、トランプ政権は、どうしてこのような政策変更を行うことにしたのだろうか?
トランプの政策変更には二つの事情が働いたと考えられる。
第一に、トランプの頭の中にいつもあるのは、来年に控えた大統領選挙である。一見支離滅裂に見える行動でも、大統領選挙での勝利という観点から考えれば、首尾一貫している。今回の政策変更は、鉄鋼や自動車の関税引き上げが、大統領選挙に有利に働かないと判断したからだろう。
まず、カナダとメキシコに対する鉄鋼やアルミニウムの関税引上げの停止について見よう。そもそも鉄鋼やアルミニウムの関税引上げは、これらを原料として使用するアメリカ産業にとって、コストアップ、収益減少を招いていた。自動車業界は、特にこの影響を受けた。
アメリカ車を中国に輸出する場合、これによってコスト増となった車にさらに中国が引き上げた関税がかかることになるので、大幅なコスト増となる。仮に、鉄鋼やアルミニウムの関税引上げで、自動車のコストが1割増加しているとすれば、中国はこれに米中貿易戦争による報復関税40%をかけるので、関税によるコスト負担は54%(1.1X1.4)となる。このため、アメリカで製造して中国に完成車を輸出していたBMWやベンツなどは、大きな打撃を受けた。
これに対して、日本から輸出される車には、当たり前だが生産段階でアメリカの鉄鋼関税は課されず、中国へ輸出する場合の関税は15%で済む。アメリカ産と日本産では39%の関税格差が生じることになる。関税が低下したトヨタは中国への輸出を大幅に増やした。
また、同じように鉄鋼を素材として使用するオートバイメーカー、ハーレーダビッドソンは、鉄鋼関税の引き上げの影響を受けたばかりか、EUからアメリカの鉄鋼等の関税引上げに対する報復として、25%の関税を追加して課せられることになった。この場合でも、鉄鋼関税にEUの報復関税が上乗せされることになる(自動車と同じように鉄鋼関税でコストが1割増加しているとすれば、37.5%の負担増となる)。
こらえきれなくなったハーレーダビッドソンは、EU向けの輸出をアメリカから他の国での生産に振り向けざるを得なくなった。ハーレーダビッドソンを「真のアメリカの象徴」と持ち上げていたトランプは、ハーレーダビッドソンの不買運動を支持すると言うほど激怒したが、これはトランプの自業自得である。(参照『ハーレーに激怒、トランプの自業自得』)
カナダとメキシコも、EUと同じような報復をアメリカ産農産物に対して行った。カナダとメキシコは、不承不承ではあるが、アメリカの要求に応じて北米自由貿易協定(NAFTA)見直し交渉を行い、「米・メキシコ・カナダ協定(USMCA)」に署名した。
しかし、トランプ政権は両国に対する鉄鋼やアルミニウムの関税引上げを停止しなかった。アメリカに対する輸出国のうち、カナダは第1位、メキシコは第5位、それぞれ16.7%、9.1%のシェアを持っており(2017年)、両国にとってアメリカ市場は極めて重要である。このため、両国とも報復関税を維持してきた。
特に、メキシコはアメリカに対して乳製品の関税を引き上げた。これはアメリカの伝統的な酪農地帯である中西部のウィスコンシン州の農業に大きな打撃を与えた。毎日8人の酪農家が廃業しているという報道もある。
中西部はラストベルトであると同時にコーンベルトと呼ばれる全米屈指の農業地帯である。伝統的に農民は共和党を支持してきた。これを放置するとトランプは中西部を失い、大統領選挙に敗北しかねない。
USMCAでは、関税なしで自動車をアメリカへの輸出する際の条件として、北米産の部品を使用する比率の増加を合意した。ほとんどアメリカ産と言えるような車でなければ、アメリカへの関税なしでの輸出を認めないというものだ。
カナダ、メキシコからアメリカへ輸出される自動車が一定の台数を超えると、関税を引き上げるというディールも両国から獲得した。アメリカの自動車業界にとって、望ましい合意だった。
しかし、カナダは、アメリカが鉄鋼関税引上げを停止しなければ、USMCAの議会承認は行わないと主張した。USMCAが発効しなければ、NAFTAが引き続き適用されるので、カナダとメキシコは困らないが、トランプはUSMCAで勝ち取ったディールを実行に移せない。
USMCAは米中貿易戦争で打撃を受けているアメリカの農業界にとっても、市場回復のため望ましいものだった。USMCAを発効させるために、鉄鋼関税引上げ停止が必要となった。
自動車関税についても、アメリカの自動車業界は価格を上げ、需要を減らし、雇用を奪うとして反対している。
トランプがどこまで認識しているかわからないが、鉄鋼業界と異なり、様々な部品から組み立てられる自動車業界のすそ野は広い。自動車関税は、自動車メーカーだけではなく、素材産業からエレクトロニクス産業まで関連する様々な産業に影響を与える。自動車の関税引上げで、アメリカの自動車業界の収益が減少すれば、自動車の素材である鉄鋼の需要も減少し、鉄鋼業界の収益は低下する。
さらに、鉄鋼やアルミニウムは他の製造業の原料であるが、自動車は消費者が購入する最終消費財である。これを販売するために、全米各地で多くの自動車ディーラーが活動している。関税引上げによる価格上昇は、売上減少となって、多くの販売業者の収益を悪化させる。
鉄鋼関税引上げよりも自動車関税引上げの方が影響は広くかつ大きいと考えられる。トランプも鉄鋼関税は引き上げたが、これまで自動車関税は引き上げられなかった。影響の大きさを認識していたからだろう。
今回も導入を延期した。トランプは多くの場合実際に関税を引き上げて、影響を受けた相手から譲歩を引き出そうとしてきたが、自動車については言うことを聞かないと将来関税を上げるぞという、やや腰が引けた脅し方をしている。
トランプの政策変更の背後にあるもう一つの理由は、議会の反対である。
メキシコとの国境に不法移民を防ぐ壁を建設するという公約を実行するため、トランプは国家非常事態宣言を行って、防衛予算の一部を壁の建設に流用した。これは連邦議会が決定した予算の議決を反古にするものだったため、上下院とも与党である共和党の一部議員が造反して、国家非常事態宣言に反対する決議が可決された。
私は、『トランプ支持率はコーエン証言でも下がらない』で次のように書いている。
中国に対して厳しく対応すべきだということは、共和党、民主党を問わず超党派で一致した意見である。インフラ整備を除いてことごとくトランプと対立してきた民主党上院の院内総務のシューマー議員も、対中国の貿易戦争については後退しないで徹底的にやるべきだと主張している。
当初は対中関税引き上げに反対してきた議員も、これに理解を示すようになっている。また、対中関税引き上げの根拠となった法律は、232条ではなく、これまでアメリカ政府がよく利用してきた301条である。
しかしながら、自動車関税の引き上げについては、自動車業界の反対もあって、連邦議会は超党派で反対している。5月8日には、159名の下院議員(うち民主党78、共和党81)がクドロー国家経済会議委員長に、自動車関税の引き上げはサプライ・チェーンに連鎖的に負の影響をもたらしアメリカ経済を縮小させるので、トランプにこれを止めるよう助言すべきだという書簡を送っている。これが報復措置を招き、アメリカの農業、製造業、消費者に悪影響を与えるとも主張している。
根本的には、与野党を問わず、連邦議会の中に、トランプが、問題のある232条を使って、本来議会が持っている関税決定権限を侵食しているという反感がある。現実的にも、自動車関税の引き上げで選挙区の産業に悪影響があれば、トランプの与党である共和党議員の再選は厳しくなる。かれらの活動が鈍れば、トランプの選挙運動にも影響するだろう。
我が国が日米貿易交渉におびき出されたのは、自動車関税の引き上げという脅しがあったからである。アメリカ自動車業界、連邦議会の反対を考慮すると、180日後もトランプが自動車関税を引き上げるとは思えない。脅威は大きく減少した。
また、本当に自動車関税が引き上げられても、アメリカ議会が心配している通り、日本はアメリカ産農産物に報復関税を課せばよい。報復されるかもしれないという恐れは、関税引上げを躊躇させるだろう。
日本の交渉ポジションはますます優位になったと考えてよいのではないだろうか。