メディア掲載  グローバルエコノミー  2019.03.05

国連"小農" 宣言 (2)日本"小農"主義の裏側

『週刊農林』第2373号(2月15日)掲載

 途上国の農民と同様、戦前日本の小農は国連宣言の対象となるpeasantだった。「何故に農民は貧なりや」という問いは、柳田國男が農政学や民俗学によって解決しようとした基本問題だった。貧しさの原因は小作制と零細性だった。

 小作人は、収穫した米の半分を現物で地主に小作料として納めさせられた。法制度上も、小作権は強い物権ではなく弱い債権であり、小作人はいつ土地を取り上げられるかわからない不安定な地位に置かれた。まさに、国連宣言が救済しようとしている"貧しく""差別された"存在だった。しかも、耕作規模は五反百姓などと呼ばれるように、1ヘクタールの半分にも満たなかった。これでは生活できないので商工漁業を兼ねた。現在(平成28年)農家の平均規模は近年の農家戸数の減少で3ヘクタールまで拡大しているし、今と昔とでは兼業の意味合いが異なる。

 当時 "小農主義"を唱えたのは、東京帝国大学教授で東京農業大学初代学長の横井時敬だった。小農を維持すべきだとする彼の"小農主義"は、貧しい小農を擁護するものではなく、それを圧迫していた地主階級擁護の主張だった。小作人が多く、その耕作規模が小さいほど、農地あたり多くの労働が投下されることになり、単収(土地生産性)は向上し、収量の半分に当たる地主の小作料収入が増加する。小作人を減少させたくない横井は、農民が農村から都市に行かないよう、高い教育を受けさせてはならないと主張した。これには、農業収入を少なくして兼業に依存せざるを得なくさせ、大資本へ安価な労働を提供するという意図も隠されていた。逆に小作人からすれば、小作人が多いほど一人あたり耕作面積が少なくなり、収入は減少する。耕作農民の立場に立つ柳田國男は地主制と対峙した。農家を貧困から救うためには、他産業への移動などで農家戸数を減少させて農家当たりの耕地面積を拡大するしかない。柳田は、小農が家族のいる農村から離れて都市や海外に出ていくのは、土地が狭くて農業では生活できないからであり、彼らを節操がないと批判するのは極めて思いやりのない人だと、農学界の大御所横井を名指しで批判した。

 小農主義は小農をさらに苦しめるものであり、柳田の中農養成こそ貧農を救済するものだった。この農政思想史こそ国連に伝えるべきではないか。柳田は、小作人にも大きな農地を耕す者と兼業で生計費を補充する者との大小二つに分かれるだろうが、後者の小農・兼業の小作人は自ら生産性向上を図ろうとはしないので、これが多くなるのは"正しく国の病"だと断じる。しかし、強大な地主階級の前に、柳田の主張はかき消された。小作人解放を求める農民組合も小作料の軽減は要求するが、零細性の克服については農家戸数=組合員数の減少を恐れて彼に同調しなかった。

 戦後、小農主義は地主階級に代わって台頭した農業勢力と結びついた。柳田の後継者は少ないが横井時敬の後継者は多い。小農主義は不滅である。