コラム 財政・社会保障制度 2019.01.10
新春の休暇にユヴァル・ノア・ハラリの話題の書「サピエンス全史」とその続編「ホモ・デウス」を読んだ。これら(特に「ホモ・デウス」)でハラリが主張していることは、人工知能、生命工学、ナノテクノロジー等の新しいテクノロジーの発展によって、人類は現生人類(ホモ・サピエンス)を超えた超人類(ホモ・デウス)にアップグレードされていく、というビジョンである。これまでの人類の目標は飢饉と疫病と戦争のなくすことだった。それは21世紀の現在、原理的には解決されたとハラリは言う。それらに代わる21世紀からの人類の目標は、至福と不死と神性の獲得だという。「至福」とは薬物を含む生化学的な手段による持続的な幸福感の実現であり、不死は文字通り寿命の延長であり、神性とは人工知能などのテクノロジーによる増強によって現生人類には不可知なレベルにまでアップグレードされた知性のことを指す。
ハラリの著作は昨年わが国でも大きな話題となった。日本経済新聞でも年末年始の連載企画「新幸福論」でハラリの世界観を検証しようとしている。
テクノロジーによって人類の知的な能力や情動の制御力が増強される、というハラリのビジョンに大きな違和感はないが、一つ気になるのが、人類の格差についてのハラリの展望である。ハラリは、新しいテクノロジーの利益を享受するごく一部の富裕層に富と権力が集中し、彼らだけが超人類に進化するものの、残りの大多数の人類は現生人類のまま取り残され、その生活水準は現在よりも低下することさえあるかもしれない、という。さらに、(ある程度の時間が経てば)大多数の人類は、かつてのネアンデルタール人がホモ・サピエンスに取って代わられたのと同じように、超人類によって自然淘汰されるという憂き目にあうかもしれないという。
このようなビジョンは、まるでH.G.ウェルズの「タイム・マシン」が描く80万年後の世界そのものである。19世紀末に書かれたこの小説の世界では、80万年後、現代の資本家階級の末裔はひ弱で精神的にも柔弱な地上族となり、労働者階級の末裔は地上族を捕食する野獣のような地下族に進化している。ウェルズの時代の後の20世紀の歴史を知っている我々からみると、格差が直線的に拡大して自然淘汰にまで至る、というハラリの世界観には違和感を禁じ得ない。
三つの批判が考えられる。
第一は、21世紀の新しい政策介入によって、富の集中は強制的に再配分されるだろう、ということ。GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)などのICT関連の巨大企業については、各国が協調してなんらかの課税や独占禁止規制を導入し、企業分割や富の再配分が起きる可能性がある。あるいは、ベーシックインカムなどの導入によって、個人や家計への富の再配分が強化されるかもしれない。こうした政策変更によって、格差拡大を補正する政策的な動きが強まると、一方的な格差の拡大にはブレーキが掛けられ、反転して平等化が進むという20世紀前半の動きが再現されるかもしれない。
第二は、技術変化は格差拡大を生み出す方向のみに一方的に進むわけではない、ということである。19世紀から20世紀にかけての生産技術の変化は、希少な生産要素(土地や労働)を節約する方向に進んできたことが分かっている。土地がふんだんにあり、労働が希少なアメリカでは資本集約的な技術(労働を節約する技術)が進化し、土地が希少で労働が豊富にあるイギリスでは労働集約的な技術(土地を節約する技術)が進化したとされる(MITのダロン・アセモグルによる「方向付けられた技術変化」の理論)。現在のICTを中心とした技術変化は、人間の労働に取って代わり、人間の労働力の価値を低下させるので、通常の仕事では賃金の低下が進むと予想される。その結果、低賃金の労働力が大量に生み出されるので、世界的に安い労働力が余る事態となる。すると、アセモグルの理論によれば、企業は安い労働力を活用する方向に技術を進化させるので、労働に対する需要が回復し、その結果、賃金は再び上昇に転じるはずである。
このように、ICTや人工知能によって労働が代替され、格差が広がると、今度は余った労働力を活用する新しい技術が生まれ、賃金が上昇することによって、格差は縮まる可能性がある。19世紀に拡大した所得格差が、20世紀の前半から1980年代まで世界的に縮小したのは、技術進歩の方向性が格差を縮小する方向に転じたからだとも推測される。技術進歩は、一方的に格差を拡大するとは限らないのである。
第三の批判は、国家がはたして超人類の代理人となって現生人類に敵対するような未来は考えられるか、という点である。
もし技術変化の方向転換が起きる前に、富の集中が一気に進み、国家とその軍事力や警察力が一部の富裕層(超人類の候補者たち)の意のままになるならば、そして、国家が一般大衆に敵対するならば、ハラリが懸念するような人類の自然淘汰のようなことも起きるかもしれない。しかしいまの民主政の先進諸国において、富と軍事力が、一部の富裕層に集中する状況があり得るのだろうか。
富あるいは貨幣とは、(まさしくハラリが書いているように)人々を協力させるための一種の共同幻想であり、その価値は、生身の人間の欲望(効用関数)と労働(自然の生産要素)に由来する。富が力を生み出すのは、富という共同幻想によって他の人間が動かされるからに他ならない。格差が広がって富裕層に富が集中し、一般大衆の持つ富が減少すれば、それは富裕層にとっての顧客の購買力が低下することと同じであり、富裕層自身のビジネスを傷つける。まして、超人類が現生人類を淘汰する未来では、超人類が蓄積した「富」(すなわち現生人類を協力させるための共同幻想)にどのような意味があるのだろうか。
ホモ・デウスへの進化を推し進めるテクノロジーの力とともに、その進化にある程度の調和をもたらす力が人間社会の内的な力として存在しているのではないか。その力をあきらかにすることが政策研究の大きな課題であるように思われる。