メディア掲載 グローバルエコノミー 2018.12.28
イギリスのメイ首相はEUと合意したブレクジット協定案の英国議会採決を12月11日に予定し、これは変更しないと主張していた。しかし、与党からも多くの造反者が出て反対が多数に上ることが判明したため、やむなくこれを延期した。次の採決の時期は示されていない。
メイ首相はEU首脳やドイツのメルケル首相などと協議するとしているが、EU側は合意した協定案は最終でベストのものであり、再交渉には応じられないと言明している。
英国議会自体、メイ首相がまとめた協定案に反対する議員が多数を占めているというだけで、反対では一致しているものの、その中身は、ブレクジッターと呼ばれる完全離脱派、残留派、中間派など、さまざまな意見があり混乱している。
ただ、ここに来てブレクジット協定案に対する争点ははっきりしてきた。
EU離脱後の移行期間が経過した後のイギリスとEUの関係について、今後交渉しても合意できなかった場合に発動されるバックストップ(「ブレクジットを理解したいあなたへ」参照)の扱いである。
バックストップとは、端的に言うと、①イギリス領の北アイルランドはアイルランドとの間で厳しい国境管理を行わなくて済むよう、これまで通りEUの関税同盟と単一市場(EUと同一の基準や規則が適用)に留まるが、②イギリス本土(グレイトブリテン島)はEUの関税同盟には留まるものの、(EUの規則等と調和のとれたものでなければならないが)単一市場のようにEUと同一の規則等の採用・適用は求められないというものである。
バックストップに反対の意見の一つは、北アイルランドとイギリス本土とは同一の市場ではなくなるため、モノが移動する先の市場の基準等に合致しているかどうか国境管理的な処理が必要となるという問題があるとともに、そもそもの問題として、同じ国なのに経済の面では異なる規則等が適用され、イギリスの主権や経済的な統一性や連続性を損なうというものである。つまり北アイルランドとイギリス本土との間に経済的な国境を引くようなもので、経済面では国が分断されることになる。
また、ブレクジッター、離脱派からは、主権を回復するために、EUから離脱しようとしたのに、将来とも経済面ではEUの規則等に拘束されてしまうと反対されている。特に、EUの関税同盟に留まるために、関税の決定権はEUにあってイギリスにはないことから、他国と自由貿易協定等の交渉はできなくなり(「ブレクジットを理解したいあなたへ」参照)"イギリスの独立した貿易政策"(independent UK trade policy)を損なうと批難している。
さらに、バックストップの廃止にはEUの同意が必要となるため、バックストップは一時的な措置ではなく、恒久的なものになってしまいかねないという反対意見もある。
しかし、EU側からすれば、問題の根本にあるのは、第一にEUから離脱したいというイギリスの勝手な要求である。第二に、かつてのようなアイルランド紛争が再発しないよう、北アイルランドとアイルランドとの間で自由に人とモノが移動できるようにしたい、そのためにはイギリスのEU離脱後も厳しい国境管理を行わなくてもすむようにしてもらいたいというイギリスの事情である。
しかも、この二つは矛盾した要求である。完全な離脱なら全く別個の経済地域となるので(日本が外国との間で設けているような)厳しい国境管理が必要だし、現状通り国境管理をなくしたままにしたいなら、EUと同じ経済地域となるようEUの関税同盟と単一市場の中に留まるしかなく、完全な離脱は諦めるしかない。
EUとしては、イギリスが勝手に離脱したいと言い出し、その上アイルランドの国境問題もあるというイギリスの事情に付き合って、時間と労力をかけて離脱の協定案をまとめてあげたのに、それが気に入らないと大騒ぎしているイギリスの国会議員たちは何を考えているのだろうと思っているのではないだろうか?相手が離婚したくないと言っているのに、「離婚しろ。しかも自分の身勝手で都合の良い追加的な要求に従わなければならない」と言っているようなものだ。
EUの担当者は、イギリスの国会議員たちを「遊園地に連れて行ってほしい。そのうえ遊園地ではおなかがいっぱいになるまでアイスクリームを食べさせてくれないと泣きわめく」と駄々をこねる幼児のような精神レベルだと思っているのかもしれない。協定案の再交渉に応じられないとするのは、当然だろう。
特に、イギリス議会のブレクジッターの要求に応じてバックストップを放棄することになると、北アイルランドとの国境が復活するアイルランドにも、かつての紛争復活という悪夢が再来する。これは、少数与党で政権基盤が不安定な現在のアイルランド政権を危機に陥れることになるので、EUとしては絶対に認められない。
EUの当事者の本音は、次のようなものだろう。
イギリスがEUから離脱して政治的だけでなく経済的な主権も取り戻したいというのであれば、合意した協定案は無視して、勝手に離脱することになる。アイルランドの問題が残るので、EUとしては避けたいが、最終的にはやむを得ない。
主権を取り戻すかわり、EUの関税同盟と単一市場から抜けるのであるから、北アイルランドとEU域内のアイルランドとの間で厳しい国境管理を行うのは当然である。それができないと、EUの関税制度が崩れてしまう。例えばイギリスとの自由貿易協定をアメリカが結べば、アメリカ産の安い農産物が関税なしでイギリスに輸出され、そこから国境管理がされないでアイルランドを含めたEU域内に輸出されると、EUの農業は関税による保護を受けられない結果となる。北アイルランドは基本的にはイギリスが処理すべき問題であって、EUの問題ではない。
これは、離脱後イギリスとEUとの間で自由貿易協定が結ばれる場合でも、同じである。他国産の産品がイギリスを経由してゼロまたは低い関税でEU域内に流入することを防ぐため、イギリス産であるという原産地規則が適切に守られているかどうか、国境でチェックする必要があるからである。逆も同じで、EUから自由貿易協定によるゼロまたは低い関税の適用を受けてイギリスに輸出される産品は、EU産であることの原産地証明が必要であり、そのためには国境管理が必要となる。
なお、現在イギリスに立地している日本の自動車産業は、部品をヨーロッパ本土から国境管理なしで自由に調達し、完成車を作っている。イギリスがEUの関税同盟と単一市場から離脱すると、たとえ自由貿易協定が結ばれてこれまで通り関税がかからなくなったとしても、原産地証明のために必要となる国境管理により、部品調達に大きな時間的なロスが発生する。いずれ工場をイギリスからヨーロッパ本土に移すことも検討することになるかもしれない。これはブレクジットでイギリスが被る経済的損失の一つである。
イギリスがEUから離脱して、なお北アイルランドとアイルランドとの間で厳しい国境を引きたくないというのであれば、イギリスは現在合意しているブレクジット協定案を受け入れるしかない。そもそも、EUとしては、イギリスが離脱することは好ましくない。それなのに、イギリスのわがままな主張に辛抱強く付合って協定案を作ったのだ。嫌なら協定なしでEUから離脱すればよい。
イギリスの離脱派、ブレクジッターは主権が侵されると言う。確かに、単一市場との関連ではEU規則等に拘束されるかもしれないが、それ以外の移民等の問題では、イギリスはEUとは無関係に法律や規則を作成できる。市場に関連しない経済以外の分野では自由に政策を決定できる上、経済的にはEU市場にこれまで通りアクセスできる。イギリスは他のEU加盟国よりも有利な扱いを受けることになる。あれもこれも、全てを手に入れないと満足しないというのは、幼児の精神性だ。
もちろん、イギリスがブレクジットを撤回するというのであれば、問題ない。
EUの行政府にあたる欧州委員会は、イギリスは自由に撤回できるのではなく、それには他の加盟国の同意が必要だと考えていたが、EU裁判所は、イギリスが撤回すれば効力が生じるという柔軟かつ寛大な判断を示した。イギリスにとって、撤回は容易になった。
そもそもEU離脱をかけた国民投票は52対48の僅差だった。しかも、北アイルランドの国境が問題となるとは、国民投票の時点で予測していなかった。EUと協定を結んで離脱しようとすれば、今ある協定案を飲むしかない。離脱派が政権を取ってEUと交渉しても、今以外の案ではまとまらない。他方で、協定なしの離脱となれば、たとえ将来EUと自由貿易協定を結んだとしても、イギリスは大きな経済的な損失を受ける。
メイ首相は、かたくなに再度国民投票を行うことはしないと主張してきた。しかし、世論調査では、当時と逆の結果が出ている。また、当時予測できなかった事情が出てきたことやEUとの交渉結果も、国民に提示して再度意見を聞くことに大きな意義がある。契約の前提となった事情に大きい変更があれば契約の修正や解除が認められるという"事情変更の原則"を適用するのである。
これまでもメイ首相は、状況の変化に応じて発言を変更してきた。今回こそ、その柔軟性を発揮し、協定なしの離脱、EUとの協定案、EU残留の3つの案について、それぞれの問題点を示しながら、国民投票を実施してはどうだろうか? それが、今の混迷から抜けだす唯一の方法であるように思われる。