メディア掲載  グローバルエコノミー  2018.09.13

日本農業成長のポテンシャル

『週刊農林』第2358号(9月5日)掲載

農業は工業とは違う?


 現代においても農業界は「農業は工業とは違う」という主張をしている。これに続けて、「だから保護が必要だ」という。これに対して柳田國男は農業も工業も収益の増加を目的として活動する以上、経済的な本質に変わりはないと主張した。

 シュンペーターの高弟、東畑精一は柳田と他の農業経済学者の違いを痛烈に指摘する。

「柳田氏の言論はまさにただ孤独なる荒野の叫びとしてあっただけである。だれも氏の問題意識の深さや広さを感得するものはなく、その影響を受けうるだけの準備を持つものは無くして終わったのである。(中略)農村・農民・農業は、他の社会・商工業者・他産業とは、いかに同一性格を持つかの大本を知ろうとしないで、差異を示し特殊性を荷っているかを血まなこに探し求めるに過ぎなかったのである。どうして柳田國男を理解し得よう。『あれは法学士の農業論にすぎない』のである。」

 農業でも工業でも、価格に生産(販売)量を乗じた売上額からコストを引いたものが収益である。したがって、収益を上げるためには、価格や生産量を上げて売上額を増やすか、コストを下げればよい。


収益を増やすとは何か?


 売上額を増やすということは、端的には需要やその変化にあった生産をすると言うことである。商売をしたことのない農政の担当者や研究者たちは、売上げ増加というと、付加価値の向上とか6次産業化とか、価格を上げることばかり考える。

 米では需要が家庭内食から外食・中食に移っている。中食や外食では、低価格米への需要が強い。ある大手卸は、収量の多い"みつひかり"を生産者等との契約栽培で確保し、牛丼チェーンに販売している。しかし、農業界の多くは、依然として内食向けの食味が良くて高価格の米の作付けや品種改良に専念し、需要の変化に対応しようとはしない。中食や外食の業界向けの低価格米の供給が足りなくて輸入米への需要が高まり、内食向けの高品質米が供給過多になるという事態が生じている。価格は低くても販売量を増やせば、売上額は増える。

 ほとんどの野菜生産者も、あいかわらず、農協を通じて卸売市場への出荷を行う。念頭にあるのは、家庭用の消費である。しかし、野菜の需要先の55%は既に加工・業務用で、家庭用は45%に過ぎない。加工・業務用需要をおろそかにしていたため、その3割は輸入野菜に取られてしまっている。

 スーパーでは売れない曲がったキュウリも、切ってしまえば普通のキュウリと同じだ。しかも、まっすぐなキュウリを作るよりも、コストは安い。加工・業務用の価格は安くても、コストも低いのであれば、収益は、スーパーに売る場合を上回るかもしれない。

 6次産業化は近頃はやりの言葉だが、加工、流通、外食のプロでさえ成功しないものを、素人の農家が行って成功するはずがない。かりに付加価値の向上に成功したとしても、コストがそれ以上にかかるのであれば、かえって収益は低下する。

 食の外部化など食生活の変化の背後にあるものは、単身世帯の増加と高齢化の進展である。単身世帯は若年層、高齢者層の双方で増加している。単身世帯の増加などにより、世帯員数が減少すると、通常の大きさの野菜を丸ごと買って、自宅で調理すれば、廃棄する部分が多くなる。小ぶりのものや外で調理したものを買う方が無駄なく、経済的にも安上がりになる。また、高齢者が増えると、健康志向が高まる。旺盛な食欲を満たそうとする若者よりも、多品種の食品を少量ずつ食べようとする傾向が高まる。

 いくら国内市場を高い関税で守ったとしても、国内市場が高齢化と人口減少で縮小する中では、海外市場を開拓しなければ、農業は生き残れない。人口減少や高齢化は、日本が他のアジア諸国に先んじて経験することがらである。これに上手に対応することができれば、将来アジアの市場を取り込むことが容易になるだろう。

 国内だけではなく輸出市場まで入れると、別の風景が見えてくる。内外で需要や嗜好が違うことがビジネスチャンスを生む。日本では長すぎて評価されない長いもが、台湾では滋養強壮剤として高値で取引きされている。日本では評価の高い大玉を、イギリス輸出しても評価されず、苦し紛れに日本では評価の低い小玉を送ったところ、やればできるではないかといわれたという、リンゴ生産者の話がある。欧米で好まれるのは小玉だからである。これは経営的にも示唆に富む。自然相手の農業では、大玉ばかり、小玉ばかり、作るわけにはいかない。しかし、大玉は日本で、小玉はイギリスで販売すれば、売上高を多くすることが可能となる。


日本が持つ農業生産のポテンシャル


 農業は工業と異なる点もある。自然や生物を相手にする農業には、季節によって農作業の多いときと少ないとき(農繁期と農閑期)の差が大きいため、労働力の通年平準化が困難となることである。米作でいえば、1週間しかない田植えと稲刈りの時期に労働は集中する。農繁期に合わせて雇用すれば、他の時期には労働力を遊ばせてしまい、コスト負担が大きくなる。

 実は日本の国土には、これを克服する自然条件が備わっている。標高差と南北の長さである。

 一般的に傾斜があり、区画が小さな農地が多い中山間地域では、農業の競争力がないと考えられている。しかし、視点を変えれば中山間地域では標高差があるので、田植えと稲刈りに、それぞれ2~3カ月かけられる。これを利用して、中国地方や新潟県の典型的な中山間地域において、夫婦二人の経営で10~30ヘクタールの耕作を実現している例がある。

 都府県の米作農家の平均1ヘクタールから比べると、これは破格の規模である。この米を冬場に餅などに加工したり、小売へのマーケティングを行ったりすれば、通年で労働を平準化できる。平坦で農作業を短期間で終えなければならない、平均10ヘクタール程度の北海道の水田農業より、コスト面で有利になるのである。過疎化が進めば、ますます農地を集約化しやすくなるだろう。

 青果卸業から農業に参入した鳥取県の企業は、中海干拓から大山山麓までの800メートルの標高差を利用して、200ヘクタールの農地で、ダイコンの周年栽培を中核にした経営を実現している。山梨県のぶどう農家は、標高250メートルの農地と500メートルの農地を使い、ぶどうの開花時期を10日ほどずらすことで、作業の分散を図り、より多くのぶどう作りに取り組んでいる。

 標高は、規模やコストだけに作用するのではない。作物の品質にも、良い効果を発揮する。中山間地域である新潟県魚沼地区のコシヒカリが、高い評価を得てきたのは、標高が高く、一日の寒暖の差が大きいからである。中山間地域では、鮮明な色の花の生産も行われている。高収益を上げられるワサビは、標高が高くて冷涼な中山間地域に向いている。

 また、日本は南北に長い。亜熱帯の沖縄から亜寒帯の北海道まで、日本は広く分布している。砂糖の原料となるビートとサトウキビをともに生産できる国は、日本以外には中国とアメリカくらいしかないのではないだろうか。南北に長いため、作物の生育がずれる。この日本の国土の特性を活かし、ドールというアメリカの企業は、ブロッコリーを生産する農業生産法人に資本参加し、日本に点在する7つの農場間で、一定の作業が終わるごとに、機械と従業員を南から北の農場へ段階的に移動させることで、年間の作業をうまくならしている。労働の平準化と機械の稼働率向上によるコストダウンである(現在は日本企業に経営譲渡)。

 狭い地域で農業を考える必要はない。日本全国に展開し、標高差や南北の長さを活用することができれば、農業は工業との距離を縮めることができる。早生、中生、晩生の品種を組み合わせることでも、複合経営に取り組むことでも、作期を長期化・平準化することもできる。こうして農業を工業化し、より効率化することが可能となる。


農業の成長を阻むもの


 しかし、農業を振興するはずの農政が農業の衰退をもたらした。その代表例が高米価・減反政策である。

 米価を上げたため1960年に比べ現在の米価は3倍以上になっている一方で、外麦主体の麦価は長期間据え置かれた。国産の米を外麦より不利に扱ったのだ。この結果、1960年米の消費量は小麦の3.2倍もあったのに、今では1.3倍と米と小麦の消費量がほぼ等しくなるまで減少した。国産米の消費が減り外麦の消費が増えるのだから、自給率は当然低下する。米消費の減少を農業界は食生活の洋風化だとするが、パンだけではなくうどんやラーメンの消費も増え小麦の消費量が倍近く増加したことを洋風化で説明できないだろう。

 日本農業の最大の問題は、農家の8割ほどが米を作っているのに、農業生産額に占める米の割合は2割しかないことである。高米価で零細な農家が米作に滞留し、主業農家への農地の集積、コストダウンによる収益の増加が困難となった。