トランプ大統領が安倍晋三首相と会談する6日前の今月12日、クドロー国家経済会議委員長とライトハイザー通商代表に対し、アメリカにとって条件が良くなるならTPPに復帰することを検討するよう指示した、と報道された。トランプ氏自身が農業州出身の連邦議会議員や州知事との会合で明らかにしたという内容だった。
トランプ氏は今年1月のダボス会議の際のテレビ局とのインタビューでも(あなたを驚かせるだろうと前置きしたうえで)TPP復帰に言及したが、同会議での公式の演説ではTPPに参加している国と二国間または多国間で相互の利益になるように交渉すると言っただけで、TPP復帰を明言してはいなかった。12日の発言はより踏み込んだものといえる。
ところが、18日に開催された日米首脳協議後の記者会見では、トランプ氏は「TPPには戻りたくない。ほかの国から拒めないような良い条件が提案されれば復帰するが、二国間の方が良い」と述べ、アメリカの利益を引き出すためには、日本との間でも二国間のディールの方が(安全保障等の面で弱い立場にある日本に圧力をかけられるので)効果的だとする考え方を示した。
トランプ氏の発言は右往左往しているが、シリアへの対応などでトランプ氏が原稿(トランスクリプト)なしで発言したことを政権幹部が直後に否定するケースが頻発していることに比べると、トランプ政権のTPPへの対応は安定していると私はみている。少なくともTPP離脱を決定した大統領就任直後の時点と比べると、政権内部でTPPの重要性が高まってきているといえるだろう。
この背景には、TPP11が成立してアメリカ農産物が日本市場から駆逐されるかもしれないという恐れが現実化したことに加え、鉄鋼関税引き上げや知的財産権の不十分な保護や侵害を理由とした対中国の関税引き上げに対抗して、中国が豚肉や大豆などの農産物を標的として関税引き上げを講じようとしていることがある。
米国では今年11月に上院のおよそ3分の1、下院の全議席を対象とする中間選挙がある。
上院で改選される34議席のうち、トランプ氏の与党である共和党が議席を持つのは8議席にすぎず、このうち農業州の議席は4議席ほどだ。しかし、共和党の現有議席は51にすぎず、過半数を1上回っているだけ。可否同数の場合は副大統領が採決に加わるので1票分余裕があるが、それでも2議席が民主党に奪取されると、共和党は上院の多数党ではなくなる。
より深刻なのは下院だ。現在の議席数は、共和党237、民主党193、欠員5。共和党は民主党を44も上回っているが、民主党が25議席多くとれば、多数党は逆転する。
中間選挙では、トランプ氏に対する女性の不満が高まっているうえ、将来の大統領候補と目されていた48歳のポール・ライアン下院議長が政界引退を突然表明するなど、共和党のリーダーシップに問題が生じている。
より重要なのは、民主党が優勢な地域はニューイングランドなどの東部地域とカリフォルニアなど太平洋地域のアメリカの東西に集中しており、共和党は農業の比重が多いアメリカ中央部の地域で多くの議席を獲得していることだ。ここで農業票が共和党から離反すると確実に多数党から転落してしまう。
TPP11の成立によって日本の農産物市場を失いかねないうえ、中国から農産物での報復措置を突き付けられ、トランプ氏は中間選挙を考慮して農務長官に救済措置を講じるように指示した。
しかし、これには財政負担がかかる。農業界からすれば、そんなことより貿易戦争を回避してもらえばよいだけだ。農業界はエイド(援助)よりトレイド(貿易)だと主張した。
アメリカを脅かす存在に成長した中国に、鉄鋼の過剰生産を減少させ、知的財産権の保護を守らせるためには、二国間で圧力をかけるよりも、多国間協定に参加して世界の貿易や投資のルールを先導し、これに従うよう中国に求めた方が有効である。
TPPなどの自由貿易協定は、入らないとデメリットを受ける。そもそもTPPは、鉄鋼の過剰生産の原因ともなっている国有企業に対する規律を新しく設けるとともに、高いレベルの知的財産権の保護を狙いとしたものだった。
隠された標的は中国だった。TPPが拡大すると中国も入らざるを得なくなる。その時に中国に高いレベルの貿易・投資のルールや規律を課そうとして、オバマ政権のホワイトハウスが開始したのがTPP交渉だった。トランプ政権もようやくこれに気が付いたのだろう。
ただ、より直接的なTPP復帰の動機は、日本の農産物市場の重要性だ。年内にもアメリカ抜きのTPPが発効し、安い関税を払うだけで済む豪州、カナダ、ニュージーランド等の農産物によって、牛肉、豚肉、小麦、乳製品等のアメリカ産農産物は日本市場から駆逐される。中国は豚肉の関税を上げるとアメリカを脅したが、アメリカの中国への豚肉輸出量13万トンに対し、日本への輸出量は約3倍の37万トンに上る。豚肉業界にとって、中国市場よりも日本市場の方が重要なのだ。
安倍政権は2016年から17年3月にかけて「アメリカ抜きのTPPは意味がない」と主張したが、私は「アメリカ抜きのTPPはアメリカをTPPに復帰させるための唯一の手段である」と反論してきた。その通りことが実現しつつあると私はみている。
奇妙な話かもしれないが、日本の農産物の関税が高いことが、TPPに参加し安い関税を享受する豪州等を利し、アメリカをTPP復帰への検討に追い込んだ。アメリカを自由貿易に復帰させるのは、これまで自由貿易の障害物だと言われてきた日本の農業や農政と言えるのかもしれない。
日本ではTPPか日米自由貿易協定かという二者択一論が議論されているが、NAFTA(北米自由貿易協定)とTPP、日豪自由貿易協定とTPPのように、TPPと二国間・複数国間の自由貿易協定が併存することは法的には問題ない。
アメリカがTPPから離脱する前は、アメリカとカナダの間には、二国間の米加自由貿易協定、NAFTA、TPPが同時に存在していた。事業者はこの中から有利な協定を選択して活動するだけである。アメリカが、TPPへの復帰と日米自由貿易協定交渉を同時に推進することは可能である。
トランプ政権が日米自由貿易協定に傾斜するようになった背景に、政権内でTPP復帰が容易ではないという認識が高まっている可能性がある。私は今年1月のWEBRONZA「危ない!トランプ氏の誘いに乗るな」で、豪州、カナダなどTPP11の国はアメリカの復帰を歓迎しないだろう、上手を取っているのはアメリカではなく日本や豪州などだと述べた。
私のWEBRONZAの記事は英訳され、キヤノングローバル戦略研究所のウェブサイトに掲載される。これは、在京のアメリカ、豪州、ニュージーランドなどの大使館で農業や通商問題を担当する人達に読まれ、彼らによって、その要旨が本国に報告される。16年11月のWEBRONZA「アメリカ抜きのTPPを実現しよう」に最も反応したのは、彼等だった。
今年1月の私の記事の結果、アメリカ政府は現状でもTPP復帰のハードルが必ずしも低くない、ましてやアメリカの都合のいいようにTPP協定を変更するなど極めて困難だ、ということに気付いたのかもしれない。
中国への圧力にはTPPが重要だが、日本市場だけを考えればTPP復帰よりも日米自由貿易協定交渉の方が簡単だという認識になっているのだろう。
TPP交渉でも日本の高い農産物関税には大きなメスが入れられなかった。日本政府が日米自由貿易協定を恐れるのは、アメリカからTPP合意以上の関税削減・撤廃を求められることを危惧するからだ。
農産物関税がもたらした国内農産物の高価格は、それに依存する農業組織を繁栄させる一方、非効率な農家を温存させ、日本農業を衰退させた。世界の農政は農業保護を価格から直接支払いという手法に転換させている。農家所得の観点からは、どちらも同じだ。日米自由貿易協定によって高い農産物関税を撤廃できれば、日本農業を鎖から解放することが可能となる。今度は自由貿易交渉が農業を救う番だ。