メディア掲載  グローバルエコノミー  2018.03.06

天文学者・古在由秀さんの祖父と足尾鉱毒事件

WEBRONZA に掲載(2018年2月19日付)

 2月15日付朝日新聞の天声人語は、古在由秀(こざいよしひで)さんについて、母方の祖父の弟は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)、父方の祖父は元東京帝大総長と述べている。

 通常であれば、まず父方の家系、次に母方の家系について述べるところが、ここでは逆だし、しかも、最初に紹介しているのは母方の祖父ではなく、その弟である。さらに、父方の祖父は元東京帝大総長とだけで名前の紹介もない。今の人にとっては、無名の人物だからだろう。しかし、この人物に名前がなかったわけではないし、凡庸でもなかった。


おじいさんは古在由直

 現在の東大総長とは比較にならないほどの社会的地位と権威を持っていた当時の東京帝大総長になるには、それにふさわしい業績があったはずである。この人は我が国近代史上最大の公害事件である足尾鉱毒事件の前進に大きな貢献をしている。彼の名は、古在由直(よしなお、1864~1934)。

 足尾鉱毒事件は古河財閥の創始者である古河市兵衛によって引き起こされた。その最大の被害者は農民だった。このとき古在による科学的な分析が事件の解決に大きく貢献した。

 事件が世間で大きな問題となる前の1891年、被害を受けた農民の代表二人が帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に古在由直・助教授を訪ねて、持参した土壌と水の分析を依頼した。古在は農民代表の声を涙なしには聞くことができなかった。彼は直ちに調査分析を行い、被害の原因は銅の化合物にあると結論し公表した。これは古河や政府を相手に奮闘する農民を大いに勇気づけた。


足尾鉱毒事件と福沢諭吉

 足尾鉱山を所管している農商務大臣陸奥宗光の次男が古河家の養嗣子となっていることもあって、政府は事件沈静化のために、被害農民と古河の間に、補償の引き換えに、一切苦情を申し立てない旨の示談契約を結ばせた。しかし、1896年6月に大洪水が発生し、鉱毒被害が拡大したため、翌1897年3月には「数千の農民」が二回にわたって東京に「押出」て請願を行い、鉱毒問題が大きな社会問題化した。

 担当省である農商務省の対応は速かった。陸奥の4代後の農商務大臣となっていた榎本武揚の現地調査と提案を受けて、農民が請願行動を行った同じ月の24日第一次鉱毒調査委員会が設けられ、その結論として、政府は、古河に鉱毒予防工事命令を出すとともに、被害を受けた農民に対しては税(地租)の減免措置をとることとした。この結論を得るや、榎本は潔く責任をとって農商務大臣を辞任している。

 現在でも一万円札に登場しているほど著名な福沢諭吉は、榎本の後任に殖産興業には政府の関与が必要だと主張する前田正名の名前が噂されると、主張の異なる前田を激しい言葉で罵るとともに(このためもあって8か月ほど外務大臣の大隈重信が農商務大臣を兼務した)、このときの農民運動や政府の対応を強く批判した。

 福沢は、足尾鉱毒事件は専門家の調査結果を待って判断すべきなのに、素人である内務大臣樺山資紀が現地を〝わかりもせぬ視察〟をすることは判断の妨げになるとし、また、被害者の陳情や請願行動などは、文明の法律世界においてはありえない挙動であり、断然排斥すべきものであるのに、政府の当局者が彼らの陳述を聞くだけではなく、出張までするとは随分念の入ったことであると批判した(福沢諭吉「内務大臣の鉱毒視察」福沢諭吉全集第15巻650ページ参照)。

 国民の要望や主張は法律や裁判などの公的な手続きで処理すべきであり、それ以外の方法での大衆的な運動は行うべきではないという、極端な法治主義である。

 法による支配を国民に理解させるための啓蒙的な発言として理解しえないこともないではないが、彼によると現在においてもデモ行進などによる表現の自由は一切認められないこととなる。しかも、当時は国民の意思を政治や法律に反映させる方法が十分ではなく(普通選挙法が制定されたのは1925年)、被害農民としては陳情等に頼らざるを得ないという事情があった。そのうえ、事件の被害者である農民対策として地租の減免措置が採られたため、地租の納付を条件としていた帝国議会の選挙権を被害農民は失うことになった。

 このとき福沢は、1897年3月28日の『時事新報』(筆者注:福沢の創刊による新聞)に、「足尾鉱毒事件の処分」と題する論説を書き、これで事件は落着したという趣旨のことを述べている。福沢は、対策が鉱毒予防に留まり、鉱山自体の操業が継続できたことを大きく評価した。


第二次鉱毒調査会と古在由直

 ところが、鉱毒予防工事は極めて不完全であって、被害民は多様な請願運動を展開したが、郡や県の段階で潰されてしまった。そこで1900年に上京請願運動を試みたものの、利根川北岸の川俣で警官隊の大弾圧を受け、51名が起訴された。窮地に立った田中正造はその翌年天皇に直訴を企て、世論は沸騰し、事態は政治問題化した。

 こうして1902年政府は第二次鉱毒調査委員会を設置した。この委員となった古在由直は、この委員会で「渡良瀬川沿岸一帯の徹底的な調査を主張したが認められなかった。そこで古在は弟子や学生の応援を得て自ら調査を行った。地図に碁盤の目状に線を引き、一目ずつから試料を採取する客観的、公正な調査であった。土壌、作物、水が鉱毒の害を受けていることを示す調査結果は、事態を進捗させる大きな契機となった。」(東京大学農学部(農芸化学の発展に寄与してきた「先人に学ぶ」より))分析結果が調査会に提出されると、全委員は驚き、沈黙した。古在は「貴方らはこの地区の鉱毒の分析表と証拠を御覧になったいま、どうなさるお積りか」と委員一同の決意を促したという。

 「農商務省は無用の長物」と断じ、政府の民間への介入を激しく攻撃し、(結果的に)古河を擁護することとなった福沢に比べ、明治期の殖産興業の負の側面を暴いた古在由直の業績は、後世には伝えられなかったし、その名前も忘れられた。しかし、古在由秀さんのおじいさんは東京帝大総長にふさわしい立派な人だった。古在由直の後を継いで東京帝大総長となった小野塚喜平次(おのずかきへいじ)は、古在の死後、「君は正義のことに勇敢たり、その動機は温かき心に出る」と古在を評した。